潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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help リーダーに追加 RSS ボルガ河クルーズ〜狂気

<<   作成日時 : 2008/07/05 21:01   >>

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昔、1枚の写真を見ました。
載っていたのは、雑誌だったのか、書籍だったのか。はたまた新聞だったのか。はるか昔で、記憶にありません。

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1964年、東京オリンピックの少し前、のころでした。
写真の印象が強烈で、その後、テレビの東京五輪中継の、東西統一「ドイツ」チーム選手たちの活躍を、冷めた目で見つめた記憶が、心痛んだ「写真」とのダブル・イメージで連結して、心に残っていますから。

そうです。日本の金メダル数16個、国別獲得数第3位に続いて、忌まわしい歴史を刻んだ「ナチス」の暴虐を結果的に許してしまったあの国の後継者たち、若い方々は、金メダル獲得数10個、第4位につけていました。

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もちろん、そんな若い方々をなじれる身ではありませんでした。こちらも。
同じように、戦争当時は子供であったとはいえ、大陸で、あるいは南アジアで、許されるハズのない暴虐行為を執り行った日本人の一人である、という事実は、覆しようもない現実として重く心にのしかかっていましたから。

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画像その「写真」は、火事で焼け落ちた建物の、当時にしては珍しいカラー写真でした。もちろん、印刷写真でしたが。
そう、ちょうどこの左写真の位置から撮影した、この左写真の建物の。
未だに、画像は脳裏にこびりついています。

そしてその画像は、左写真と比べれば、見る影もないほど無残でした。

画像建物は、茶色のレンガや石材が剥き出しとなった崩れた外壁の連なりの風景。かつては窓であった開口部には、根付いた雑草がチラホラ。窓越しに見える天井は焼け落ちたのか、青空が透けて見え、現在の、目の覚めるような外壁の青色など、どこにもありませんでした。
第二次世界大戦が終結し、数年経ったころの、エカテリーナ宮殿の姿でした。

画像ナチス・ドイツがポーランドからバルト三国をあっと言う間に飲み込んで、当時のソビエト連邦、レニングラードに迫った、あの有名な「レニングラード包囲戦」。以降、サンクト・ペテルブルグは2年4カ月余りにわたって包囲され、食糧も砲弾も消え行くなかで、この街の人々は女子供まで戦い、やがて、数多くの市民が死んでいきました。

画像「包囲網」に痛めつけられたロシアの人々は今度は、1945年、当時の満州になだれを打って踏み込んできて日本人に牙を剥き、蹂躙しました。

「包囲網」事件と、続く「命の道」の補給線死守事件。今では、歴史に埋没してロシア、サンクト・ペテルブルグ市民以外、あまり語る人はいません。

画像が。逆に、同じソ連に満州で手酷い襲撃を受けた当時の引き揚げ者や、戦後、マルクス・レーニン主義こそ理想の世界と錯覚した日本の若者たち。戦争の痛手が一段落して、復興への指針がようやく見えてきた時期。戦争への反省と平和への祈りの一つとして、それぞれ立場を異にしながらも、あの「包囲網」についても語り合った体験を持つ人は多い。そう、思います。

画像ユダヤ人大虐殺と同様。
そういう、歴史的な、人間の「狂気」のひとコマであったのです。

真実はいったい、どうであったのか知りませんが、いうところの「南京大虐殺」。もちろん、日本人も、その「狂気」から無縁であったわけでは、決してありません。

画像「レニングラード包囲戦」の最中、サンクト・ペテルブルグから南へ25キロ離れた、ツアールスコエ・セロー(皇帝の村)という名の、現在では緑豊かなエカテリーナ宮殿の町は、ナチス・ドイツ軍の手に落ちていました。

彼らは、敗戦の色が濃くなった1944年、名だたるあの「琥珀の間」を破壊し、すべての琥珀を持ち出して逃走、退却。宮殿は火に包まれたのでした。

画像「写真」のハナシ。
焼け落ちた宮殿のその後の、荒廃した姿を見たのですね。東京五輪の直前に。

後ほど知るのですが、宮殿は1955年から修復作業が始まったそうです。そして、ほぼ完成するのは、その25年後。

「琥珀の間」はさらに時間がかかって、サンクト・ペテルブルグ建都300年記念の2003年にようやく、修復工事が終わったのだそうです。


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人間は、時には「狂気」に飲み込まれる。そういう宿命を、その身の内に宿しているようです。
世界に、いったい、いくつ、あるのでしょうか。そして、いつになったら、もう造らなくてもよくなるのでしょうか。

その「狂気」の記念碑やモニュメント、名残の場所は、数え上げるとキリがありません。ポーランドのアウシュビッツが有名ですが、日本には「ヒロシマ」や「ナガサキ」にも。東京の下町にも、東京大空襲の名残の場所はあります。人類が犯した過ちを永遠に留めなければいけない場所。これ以上増やしてはいけない。そう、思います。

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と、長々、思い出話、埒もないことを。。。

ツアールスコエ・セローを訪ねたのは、6月9日午後でした。

目指すは、皇族の夏の宮殿であった「エカテリーナ宮殿」。あの「琥珀の間」で有名な、青い塗装の外観の宮殿です。

画像日本の皇室でたとえれば、位置づけは新宿御苑くらいにあたりましょうか。フィンランド湾に面した、ペテルゴーフのピョートル大帝「夏の宮殿」を「浜離宮」くらいにたとえれば。ピョーテル大帝の都からは、そのくらいのイメージでしょうか。少し離れた、文字通りの離宮です。

入館にあたって、ビニールのスリッパ、靴覆いを強制的に履かされました。足元写真のとおりです。
美しく数多いモザイク床に傷をつけないように。そんな配慮がされていました。観光地で良く見かける光景ですが。

以前、エカテリーナ宮殿を初めて訪ねた時は、かなめの「琥珀の間」はまだ修復中でした。

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ほんの小さな、琥珀をモザイク状に組み合わせた壁の一部をサンプル状に貼り付けてあるだけで、残る部分は「絵」とグレーの布で覆ってありました。第二次世界大戦後、既に半世紀以上も経っていたのに、人類の苦い歴史が、つい、昨日の出来事のような感じで、冷たく余韻を引いていました。

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破壊、解体されてナチス・ドイツに持ち去られた「琥珀の間」の琥珀は、その後、現在に至るも見つからず、ロシアは今なお、特別チームがその琥珀を探し続けている、と、巷間、ささやかれています。

エカテリーナ宮殿。バロック様式とクラシック様式が混在する、繊細華麗な宮殿です。

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【写真説明】緑の食堂
赤い絨毯敷きの正面階段。
シェーンブルンやベルサイユのように目を見張るほど広くはありません。が、白大理石の階段と壁は美しく、踏みしめて昇り上がると、真っ赤な窓飾りが。壁面には、多分、古伊万里ではないでしょうか、美しい壷と皿の飾りが目に。

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【写真説明】大広間天井画

昇って右に折れると、大広間でした。
作家井上靖さんの小説「おろしや国酔夢譚」。
1783(天明2)年、船頭として乗っていた「神昌丸」が嵐で遭難、カムチャッカに漂着した大黒屋光大夫が、1792(寛政4)年、ロシアからの帰国許可を得ようとシベリアからこちらまで長い長い旅を。そして、エカテリーナ2世に謁見したのが、この大広間でした。

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大広間は現在では、一般に貸し出されもしているそうです。民間企業のパーティーや接待にも使われているそうです。

訪ねた日。夕刻からパーティーとして貸し出される予定が入っていたそうで、テーブルのセッティングなどが忙しく続けられていました。

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次回、もう一度だけ、エカテリーナ宮殿の写真を。。。

下の地図写真を、周辺マップで縮小してください。サンクト・ペテルブルグとの位置関係が良くわかります。


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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
hiroshi さん  こんにち^ヮ^)

流石な歴史考察に感服です。戦争への気持ちは同じ共感です。
今の様な日本で過ごせるはずは有りません。何れは何かとんでもない災害か?人災(戦争?)
歴史が語ります。 心から平和を願うものです!!

「エカテリーナ宮殿」・・こんなに華やかな宮殿が焼き尽くされたのですね? 長い修復でしたが、どの位元通りなのでしょう?
余りに華やかでチョット落ち着かない気持ちでは有ります。
琥珀の間は撮影禁止でしたが〜 少し前に行かれた方は写されてました。

hiroshi さん 「エカテリーナ宮殿」の撮影が素晴らしいです。一眼レフの威力実感しました。明るくシャープで参りました。 まう〜間違ってもセンセイと言ったら私は怒ります。ハハハ〜 hiroshi 先生!!
たえこ
2008/07/06 11:36
やぁ、やぁ、たえこさん、こんにちは。

>まう〜間違ってもセンセイと言ったら私は怒ります。

とんでもありません! たえこセンセ〜。
かなめは、写真の味わい、美しさ、温もり感ではないですか!! とても、とても、たえこさんの足元にも及びません。カメラによって、写真の精度がアップすることと、画角や被写体(お〜! なんと難しい言葉まで勉強したことか!!)の美しさをうまくカメラにとらえることと、まったく違います。たえこさんは、失礼ながら、多分、本能的、持って生まれたセンスでらっしゃるのでしょうが、とてもとても、こちらは足元にも及びません。まだまだたえこさんの二つのブログで修行させていただきます。

と言うわけで、引き続きセンセ^と呼ばせていただきます!!

戦争は、おっしゃるとおりイヤですね。少し気障な文章ですが、若いころに思ったことなどを、少し照れくさいですが、覚え書として書き込みました。今は見向きもしませんが、こちらがこの世を去った時、残ったわが身内の連中が、こちらは日ごろどんなことを思っていたのか、少しでも知ってもらえるよすがに、と、覚え書にしました。
hiroshi
2008/07/06 12:53
hiroshiさん、こんばんは。

戦争のこと。
我々世代は、学校でちゃんと習わなかったように思います。歴史の勉強は、古代から始まって最初はとってもゆっくり詳しく教えてくれるのに、現代に近づくとどんどん駆け足になって最後は時間切れ。今から思うと、それはわざとじゃなかったのかと思うほど省略されてしまいました。
で、自分で本を読んで戦争のことを知りました。

子供だったとしても、その渦中にいらっしゃった方の思いは、やはり聞かせていただきたいと思います。どんな形でもいいので、後の者に残していただきたいなと思います。それを聞いたり読んだりして知る。そして自分の頭で考えることが必要と思いますので。

エカテリーナ宮殿。こんなに美しい歴史的な建物が、一般に貸し出されているのですか?ちょっと驚きです。
まゆき
2008/07/08 22:53
まゆきさん、今晩は。

今少し前、ようやく、お書き込みいただいた上記コメントに気づきました。

>戦争のこと。
我々世代は、学校でちゃんと習わなかったように思います。歴史の勉強は、古代から始まって最初はとってもゆっくり詳しく教えてくれるのに、現代に近づくとどんどん駆け足になって最後は時間切れ。今から思うと、それはわざとじゃなかったのかと思うほど省略されてしまいました。

多分、まゆきさんたちと同じか、それ以上ではなかったでしょうか。我々世代の授業では。

価値観が極端に変わった学校教育の現場では、教師たち自身が、あの戦争をどう教えたらいいのか、どう教えるべきなのか戸惑い、迷い、試行錯誤を繰り返して結局、言わない、教えない、しかできなかったのが戦争直後の教師たちだったと思います。まゆきさんたちの世代の方々の教師たち以上に、我々の教師たちは何も語ってくれませんでした。そう思います。

いや、中には恥も臆面もなく自らの体験を自慢げに語る馬鹿な教師も、稀にですが、いました。

hiroshi
2008/07/10 00:13
〜うえから続く〜

「自分は、あの戦争でチ○ン○ロ(中国人の蔑称)の子供を何人か抹殺した。あんな虫けらたち、淘汰すればいいンだ。ポンと空に放り上げて、銃剣で下からこうやる(空に向かって突き出す仕草をして)と、上から落ちてきて銃剣の先にぐさりと突き刺さる。。。」。そんな馬鹿な話を、子供たちの前でとうとうと自慢げに語る兵隊帰りの教師たちが、数少ないけれども何人かいて。子供たちの中には、おいおい泣き出す女の子もいて。目を真っ赤にした同級生の喧嘩に強いヤツが、その教師に「何でそんな話、するンや!」と食って掛かって。するとその教師が、つかつかとその同級生のところへ早足で行って、胸倉をつかむといきなり平手打ちのビンタを繰り返して。こちたは怖くて何もいえず、助けることもせず、情けないことにただただ俯いて唇を噛んでいるだけで。
今、久しぶりに思い出しました。そんな教師が何人かおりました。嫌な時代でした。正義とは何ぞや。180度転換した、揺れる価値観についていけない人間たちが少数だけれどもおり、彼ら嫌な人間たちがまだ戦後数年間は日本を牛耳っていたのです。

hiroshi
2008/07/10 00:15
〜上から続く〜

実際の戦争は、ほとんど知りません。B29とかグラマンとか空襲、爆撃に来た飛行機の姿などをかすかに憶えているぐらいです。しかし、さきほどのバカ教師のごとく兵隊帰りの人たちが身の回りにいっぱいいて、その人たちやほかの大人たちから見聞きしたことを骨格に、活字で自ら学んでいった程度しか知りません。もう既に、生まれこそ戦前派ですが、知識はまったくありません。たえこさんやたえこさんのご主人ならば、多分、また違い、もう少しお詳しいと思います。
hiroshi
2008/07/10 00:16

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