潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS ザッテレ。不治の病の病院。マラソン〜2

<<   作成日時 : 2011/02/24 00:36   >>

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ヴェネツィア、ザッテレ。
ヴェネツィア・マラソンの、わが手作りのコース地図では、5番から4番にあたる一帯。


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新しい美術館が開館したり、絵描きさんら芸術分野の作家の店が増えたり。
街の表情は表向き、世界遺産の外観のまま変化なし、の風情でしたが、一歩、その建物の内まで踏み込んでみると。少々、以前に比べて、様子は変わっていました。

↓地図の5番、プンタ・デッラ・ドガーナの先端に、等身大の像が一体。チャールズ・レイ作「カエルを持つ少年」の像。2009年の初夏に設置されたのだという。近くに、日本の著名な作家の作品も並んだ美術館も新しく開館していた。


画像ザッテレ。
以前にも一度書きましたが、、そして、ビデオ・カメラの動画でもアップしましたが、クルーズ船が入出港時に通過する、大河のごとくにさえ見える幅広い運河、ジュデッカに沿ってウォーターフロントを形作る、フォンダメンタ=岸辺の道、です。

ヴェネツィア・マラソンの“本番”に先立って。
こちらの河岸のいくつもの小運河を越える橋上にも、マラソン・ランナー用、臨時の“坂道”は設けられていました。

滞在期間中、3〜4回、こちら一帯を歩いたり、こちら一帯のカフェテラスでコーヒーを飲んだりしました。
ヴェネツィアでも、好きな一角の一つです。



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画像この「ザッテレ」という言葉、そして場所を知ったのは、須賀敦子さんのエッセイ、「ザッテレの河岸で」。でした。

書かれていたのは、Ospedale degli Incurabili=不治の病の病院について。

ザッテレの岸辺を歩いていて、偶然、彼女は、小さな水路の横の壁上に書かれた「Rio degli incurabili」を見つけます。

「リオ・デリ・インクラビリ」。
不治、つまり、直る見込みのない、死に行く定めの人々たちの運河。
そして、その横に建つ建物は、ただひたすら、死を待つだけしかないさだめの人々を収容した病院、「オスペダレ・デリ・インクラビリ」。



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直る見込みのない人たちの小運河。
これは、いったいどういう意味なのか。

。。。ここから、彼女の調べと、その過程で浮びあがってくる様々な「不治の病」に病んだ人々への彼女の思い入れとが、水の上の1000年都市ヴェネツィアの、決して明るい面だけではない、過去の襞の一つを解き明かしながら、繊細に、物悲しく、綴られています。

治る見込みがない人たち、つまり死ぬことだけが定めであった人たちとは、いったい、どんな人々であったのか。
浮かび上がってきたのは、中世ヴェネツィアの、歓楽都市の一面でした。


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16世紀のヴェネツィア。
経済的な栄光の頂点を越えて、緩やかな下り坂にこの街が転がり始めた時代。文化的にも爛熟の時代、狂乱の時代を迎えていたのです。

フィレンツェを核に始まったイタリア・ルネッサンスの波は、この都市も例外でなく、飲み込まれていた時代。再生、復活の波は同時に、生きる喜びの解き放しの美名のもと、あでやかな文化も、隠微に押し隠されることなく、次第に白日の下にさらけ出されて行ったのでした。

生の喜びが賞賛され、解き放された直截な欲望は芸術の領域から溢れ、枠を飛び出して衣、食、住世界から、生々しい肉体的領域までにも広がっていった、ルネッサンス期。
当時、既に、世界の名だたる観光、饗宴都市であったヴェネツィアでは、性の饗宴の分野でもあだ花が華麗に咲き競った、ようです。
ヴェネツィアの冬、復活祭前の四旬節を目前にして開かれるカルナバーレ、カーニバル。楽しむ人々の服装やマスケラ=仮面が、ひと際、この街では妖艶なのも、その歴史の影響でしょう。きっと。


当時、ヴェネツィアの街にいた娼婦は、1万1000人。と資料に残っているそうです。ヴェネツィアの当時の推定人口の、実に、10人に1人はその手の職業の女性。

その中で、高い教養と知性を持つ女性たちはとくに「コルティジャーナ=宮廷夫人」と呼ばれ、ヴェネツィアの歴史を紐解くと、娼婦としての役目はもとより、往時の芸術家や貴族たち、知識人たちと対等に話題を弾ませることの出来る、知性と教養の高い女性たちであったようです。


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以下、写真は、地図の6番から7番、サン・マルコ小広場からスキアヴォーニ河岸、ゴールのセッテ・マリッティマ河岸にかけて。

自分の子供のころ。小学校高学年のころ。
級友の一人に、当時、花街であった地区から通う、置屋の息子がいました。

もちろん、そういう制度は自分たちが高校生のころにもう、新しい法律が施行されたこともあって成り立たなくなり、廃業していって、彼は、大学を卒業した後こちらと同じく、しがない一サラリーマン生活を送り、ここ20年ほどは年賀状をやりとりする以外ほとんど没交渉ですが、今も、ごく普通のリタイア生活を送っているハズです。

昔。
小学校高学年の男児、となると、そろそろ、そういう世界にも興味を持ち始める年代です。
で。
何人かの遊び仲間のうちで、とくにそういう世界をのぞくことが好きなヤツがいて、彼に誘われるまま、置屋の息子が断らないのをいいことに、彼、置屋の息子の自宅へ遊びに行ったことが何度かあります。


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自宅、といっても、置屋です。
木造のそれでしたが、明治中期に建てられたそれは、太い丸太を何本も使った、木造にしては豪壮な4階建てで、各部屋は、建て増しを重ねたゆえもあったのでしょう、迷路のように入り組んでいました。

その豪壮な彼の家、置屋の最上階、4階の片隅に、彼の自室はありました。

その部屋の窓を開けて部屋の電気を消すと、中庭を挟んで、3階、2階の、夜のお姐さんたちの部屋が密かに見下ろせる。
それが面白くて、仲間何人かと、それをのぞき見に訪ねたのです。

振り返れば、随分生意気な小学生で、現代ならば御用、となりかねない犯罪行為を、悪ガキどもが、重ねていたものです。


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そういった、夏休みのある日、ある夜。
見下ろした片隅の部屋で。
まだ若い、それこそ、まだ二十代に入ったか入らないかほどに思っていた一人の部屋の窓が開け放たれ、彼女は独りで布団に臥せって、窓側を眺めていました。月とか星とか、そういうモノを眺めて物思いにふけっていたのかもしれません。

彼女。
とてもキレイな女性(ひと)でした。
学校帰り、ですから白昼ですが。。。彼の置屋を訪ねた折、玄関先で、何回か彼女と顔をあわせたことがありました。「元気?」などと、言葉こそ一方的にかけられるだけで、こちらは『こんにちは』以外、恥ずかしいこともあって話したことは一度もありませんでした。
笑顔の優しく、そういう世界に身を置く女性とは思えないほど、たおやかな女(ひと)でした。


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臥せっている彼女。
当時は本人でさえ気づいていなかった、こちらの秘めた思いを、置屋の彼は知っていたのか、知らなかったのか。その後、話題にするのも恥ずかしいもので、今まで、そのことを彼に訊ねたことはありませんが。。。

彼は、どうしたのかといぶかしむこちらの表情をちらり、眺めながら。
「○病だよ。客にうつされたらしい」。と、ぽつり。

その時。
中庭を挟んで、電気を消した窓辺でささやく小声のこちらの会話が、あたかも聞こえたかのように。
いえ、もちろん、聞こえるハズはないほど、彼女の部屋と彼の自室との距離は離れているし、お互いに耳元でささやくほどに小さな声で話していたのです。
次いで、真っ暗にしている彼の部屋の、開け放した窓の内側の、暗闇の中の我々が、まるで見えるかのように。
彼女は自分の部屋の窓の外の中空を。。。
あたかも、部屋を覗き込むこちらの顔を見据えるように凝視。。。
しながら、肩までかぶった薄い夏布団の中で、声もなく、泣き始めました。
声を押し殺して、喉と肩を揺らしながら、尺取虫のように身もだえしながら。嗚咽します。

その風情。
オレンジ色の電球の薄明かりに照らされて、布団の端から両指先をのぞかせて夏布団の隅をぎゅっと掴みながら、唇を固く結んで、涙だけをポロポロこぼして。。。

見てはいけないモノを見た思いでした。
もっと、見てはいけないモノを時折、見てさえいたのに。
罪悪感にさいなまされました。

彼女は、見るに耐えられないほど、ただひたすら、悲しげで、悲しげで。。。


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この夜。
逃げるように彼の部屋から家へ帰りました。
以来、一度も、彼の家へは、行きませんでした。

間もなく。
彼女は、雪深い彼女の生まれ故郷へ帰った、と彼から聞きました。
そして大学に入ったころ。彼女は、あの当時臥せっていた病気が原因ではなく、肺結核でこの世を去った、と、また彼から聞きました。

どうして彼は、そんなことを、自分にいちいち告げたのか。報告してきたのか。
今振り返っても不思議です。当時は、そんな詮索をしたことはなかったです。

きっと、彼は、ひょっとすると。
自分も知らなかった、自分の中の思いを、まだ小学生の癖に、見抜いていたのかも知れません。花街で生まれ育ったから、そういう人間の感情の機微に敏感であったのかも。

なぜ?と聞くのが嫌で、彼とはその後、彼女の話題は一切、こちらから切り出したことはなし。
彼からも、その後は一度もありませんでした。

あの時、計2回。どうして教えてくれたのか。
最近になって、「なぜ」と聞いてみたいな、と、密かに思い始めました。
年齢的にも体力的にも、こちらも死期が迫ってきた、この歳になって。


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↑こちらから下の写真は、地図の3番、4番、ザッテレの河岸の光景。

ハナシは再び、病院、「オスペダレ・デリ・インクラビリ」。

当時のヨーロッパ社会では、ペストとともに性病も、蔓延していました。
娼婦達のうち、性病に侵された女性たち。
その女性たちが収容されたのが、、「オスペダレ・デリ・インクラビリ」。

画像『思いがけなく、ひとつの考えに私はかぎりなく慰められていた。
治癒の望みがないと、世の人には見放された病人たち、今朝の私には入口の在りかさえ見せてくれなかったこの建物のなかで、果てしない暗さの日々を送っていた娼婦たちも、朝夕、こうして対岸のレデントーレを眺め、その鐘楼から流れる鐘の音に耳を澄ませたのではなかったか。人類の罪劫を贖うもの、と呼ばれる対岸の教会が具現するキリスト自身を、彼女たちはやがて訪れる救いの確信として、夢物語ではなく、たしかな現実として、拝み見たのではなかったか。
彼女たちの神になぐさめられて、私は立っていた』。
=須賀敦子著「ザッテレの河岸で」。

このエッセイ。
今もなお、物悲しく、思い出す度に身震いするほどに深く、心奥にたゆたっています。

だからでしょう。
このあたり。ザッテレ。
ただ、何も思わずたたずむだけでも、広い広い運河が目の前いっぱいに広がり、潮風が流れて、水面で照りかえる太陽の光が波間でゆらゆらと揺れて、なんともいえず、魅惑される。

やっぱり、好きなのです。この、水際の道。


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この病院。「オスペダレ・デリ・インクラビリ」。
以下、須賀さんのエッセイには触れられていないことですが。。。

収容されたのは性病にかかった娼婦たちです。
けれども、その子供たちも、当然ながら、親と一緒に収容されました。
施設に入った子供たちは、男子は手先の仕事を憶えながら。女子は楽器演奏と歌唱を学びながら、成人していったのだそうです。

そして。
その、彼女たちのコンサートはやがて、ヴェネツィアで有名になっていったのだとか。
トルコ・ブルー、青緑色の衣装、すなわち、現代用語、現代の慣習に置き換えれば囚人服、が、制服であったそうです。
偶然でしょうが。。。自分のいちばん好きな色。なのです。
クルーズ船のデッキで、快適な航海を続けている際に良く見られる、魅惑的な海の色、です。


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エッセイスト、須賀敦子さん。

ヴェネツィアについての著書を持つ日本の作家たちの数多い作品のうち、自分が真っ先に目にしたのは、この人の作品でした。若いころは、ハワイ以外、関心も興味もなかったから、著名な外国の作家の作品2〜3点を除くと、ヴェネツィアに関する小説もエッセイも研究書も、目を通したことは一度もなかったです。

須賀さんの一連の作品のうちの「ヴェネツィアの宿」。

シンポジウム出席のためヴェネツィアを訪ねた彼女は、フェニーチェ劇場、開館200年の記念コンサートが開かれている、フェニーチェのすぐ横のホテルに泊まった、と書かれていました。

ホテルの名は「ラ・フェニーチェ」。
フェニーチェという名を持つホテルはほかにもあるから、さだかではありませんが。。。作品を読む限り、今回の「クルーズ船故障」旅で我々が利用したホテル、であったのではなかろうか。きっと、そうに違いない。
現地で周りの風景を眺めて、エッセイの描写と照らし合わせて、そう確信しました。


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ハナシは変わります。

マラソン・コースの手作り地図の3番、ザッテレの西端、フォンダメンタ・ザッテレ・ポンテ・ルンゴ一帯。
こちらに、日本で言う、食品スーパーが1軒、あります。

ヴェネツィア本島では10軒あまりある、と聞く同種の店のうちでは、比較的に売り場の広い大きな店です。
広い、といっても、そこはそれ、ヨーロッパ旧市街のそれで、しかも水の上の街ヴェネツィアです。日本のそれと比べれば、たいしたことはありませんが。。。

こちら、イタリアでスーパーメルカート(Supermercato)というその手の店のうち、「Billa A.G」系列のお店。ヴェネツィア滞在中は、このお店か、リアルト橋とサン・マルコ広場のほぼ中間くらいに店を構える「Su.Ve」へ良く行きました。

ご存知の通り、ヴェネツィアは、何でもべらぼうに高い。
サン・マルコ広場周辺で、喉が渇いて清涼飲料1缶買うと2ユーロから3ユーロはします。お店で椅子に座れば、当然ながらもっと高い。そこへ行くと、スーパーメルカートでは、およそ3分の1から4分の1。加えて、ペットボトルの水も、この街を歩き回るならば、1日1本、500ミリリットルでは足りない。


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ご覧ください。
果物も、1キロあたりでこのお値段。
これでもまだ、土地っ子に聞くと、本土の街よりも高い、のだそうです。

マラソンのコース沿いで。
おなじみ、日本の乳飲料の横断幕を見ました。
イタリアの現地法人が協賛しているのだ、とか。
どちらの街でも同じですが、異国で見るニッポンは、やっぱり、何となく親しみが沸いて心強いです。

サン・マルコ広場からスキアヴォーニの河岸にかけて。
手作り地図の番号で言えば、6番以降ですが。。。
こちらは、おなじみの光景の場所。

旅談議は、別の機会に「覚え書」したい。です。
 

※どなたか存じませんが、メッセージ、ありがとうございました。

ご指摘の通りです。
須賀敦子さんのエッセイの引用は、あれだけのみでは、おっしゃる「救いの展望」までを見据えた須賀さんのエッセイとして、誤解を与えかねない、はしょり方でした。
ということで、あの文脈の前後を、文字色を変えて追加、引用しました。

ご指摘、ありがとうございました。引き続き、つたないブログではありますが、お時間のおありの折に目とおしいただければ幸甚です。
=2月24日午後8時17分、引用部分、一部修正

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
わ〜  早いアップがいっぱいで〜
何処に書き込もうか?
迷いますデス。

お留守なのはもしや? 旅に? それもクルーズなのでは〜〜〜??

それだと何処かな? 

アマルフィパート2もステキです。
天気も良く美味しい物もいっぱい写されて〜 絶壁は今日見れば地震が怖い画像ですが(笑)
路地の様子も好きです。

>夜のお姐さんたちの部屋が密かに見下ろせる。
そこのお部屋の美しい薄幸の美女のお話しが〜
ロマンチックな〜 それも淡い恋?
お上手な表現に下手なコメントお許しくださいませ〜
シュンとなりました。

何を身をしごくように泣いて居たのか? 自分の寿命が尽きるから?
好きな人が居たのかなあ〜 親の事思って〜
ウルウルです。

悲しいお話しでした。
たえこ
2011/02/25 20:29
たえこさん、今晩は。

いえいえ。
残念ながら、旅行ではないんですよ。野暮用です。

歳ですねぇ〜。
最近、いろいろと万が一、を想像しちゃうんですね。藤原さんの影響です。いつ何時、お迎えが来てもおかしくない。身に沁みてそう思います。
で。自分で定めた、とか、そういいうことだけはキッチリと、大急ぎで仕上げました。

>ロマンチックな〜 それも淡い恋?

あはは。
まだ小学生であったですからね。そんな大仰なものではなく、憧れだったのかもしれませんね。
花街、とキレイに書いていますが、ご存知の通り、昭和33年に法律が改正されるまでは大っぴらにやり手バアサンが呼び込みをやっていた時代の「遊郭」の話です。そして10歳ほども年上のおねえさんだったですから。
たえこさんのふるさとは豊かなお国であったのでしょうが、わが少年時代のふるさとは、昭和20年代のあのころは貧しい土地でした。親の借金のためにその世界に身を投じる女性はさして珍しくなかったです。
なぜ泣いていたのか? 
多分、借金の残高や年季開けを考えたて悲観したり、病気を苦に将来をはかなんだり、あるいは、おっしゃるとおり誰か好きな客がいて、病気になったため嫁に貰ってもらえなくなったとか、そういうことであったのでしょうか?まだ子供でしたからわかりませんでした。
ラジオの連続放送劇「君の名は」の時代ですものね〜。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」、です。あはは。
hiroshi
2011/02/25 21:40

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