潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS ルーマニアへ。何故あちら?と。怪しまれつつ旅立ち。

<<   作成日時 : 2014/08/08 23:08   >>

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生まれて初めて、ルーマニアへ行ってきました。


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友人や親類縁者のほとんどが、曰く。
「どうしてぇ?」「なぜ、何を目的に、あんな国へ旅するの??」などと。

画像60代初め、初めてモロッコへ行った時も、友人らは同じ反応でした。
「まさか?! 今さら性転換手術かぁ!」。「それ以外、用はないだろ、あんな国」などと。モロッコが耳にしたらぶっちぎれるに違いないほど、偏見と知識不足による憶測を基にした思い込みで不思議がられたのと、ほぼ似たような反応でした。

可哀想に。ルーマニアも、日本では知名度芳しからず。誤解されていまするなぁ〜〜。

画像しかし、確かに。
こちらも、ルーマニアと言われて思いつくのは、お笑い軍団の総帥であり、映画監督として世界に崇拝者が多いあの“師匠”の若き頃のギャグで一層有名になったかつての体操界の可憐な花「コマネチ」と。
「ドラキュラ伝説」と。
欧州各国の人々に嫌われている「悪さをするロマ=ジプシー」たちに数多く寄生された、旅人にとっては要警戒の国、ということ、と。

ラテンの国々が好きだから偶然知っていただけの、東欧唯一のラテン系の人々の国。。。
。。。こちら、“アモーレ、カンターレ、マンジャーレ”などと。陽気に、恋して、歌って、食べて、の、ラテン系代表選手にも見えるイタリア人大好き人間ですから。だからこそ、ルーマニアにも以前から行ってみたかったのですが。。。

。。。ラテン系の人々の国、だということと。
いくつかの、ひと味変わった世界遺産。。。

画像そして、もう一つ、20世紀終盤の東欧共産圏相次いで民主化へと歩み始めた流れの中で、秘密警察を使った圧政を24年間続けて人々を虐殺し続けたチャウシェスク大統領に対して、流血の革命劇でようやく排除、処刑の革命を成し遂げた人々の国。。。との程度。

画像そのルーマニアへ、行ってみた結果。。。

半世紀ほど昔の、日本の田舎に、時空を超えて巡り合ったようで。
逆に、「貧しくても、こんな暮らしも悪くないなぁ」などと。ちょっと感動しました。

「ルーマニアには、ヨーロッパの原風景がある」。
「中世ヨーロッパ・片田舎の風景を今なおとどめる」などと。
よく言われますが。。。

まさにその通り。
加えて、半世紀ほど昔の、太平洋戦争、終戦ごろまでの日本の片田舎の雰囲気さえ残っている、と、感じました。

画像なぜ、そう感じたのか?

ひと言で言えば、貧しいのですね。
日本の本州ほどの土地に、日本の6分の1ほどの人口しかいない中、革命前や以降の混乱が発展を阻害しているのか? それとも。。。
とくに、北部の、ウクライナなどと国境を接する山あいの地、ブゴヴィナ地方やマラムレシュ地方。険しい山岳エリアであることが、南部平原エリアに比べて一層経済的に貧しく、たとえば、南部ではようやく整備され始めたハイウェイは皆無、上下水道や道路の舗装率をはじめとするインフラ整備も低い、などなど。経済格差の悲哀を味わっているように感じました。

トラクターなどはまだまだ少なく、結果、村人が農耕馬の鼻先を曳き、馬が人と一緒に汗を流して畑を耕す。
下水網がないため、世界的に有名な観光名所の門前の、カフェや土産物店でさえ、汲み取り式便所で、独特の匂いがかすかに漂ってくる。。。など、など。


画像しかし、逆に。

そういう近代化の遅れ、経済的低迷とを引き換えたかのように。人と人の間に血の通ったつながりがあり、人と動物さえ同じ目線でいつくしみあっているかのようで、地域社会の温もり感は今もなお、映画に登場する中世の村のごとくに色濃く。

画像かつて、戦後間もなくのころまでは日本にもあった、横丁のよろず屋の縁台周りでは夕刻になると近所の人々がそぞろやってきて。始まったご近所同士の夕涼み風景の、子供にとって怖かった隣のかみなり親爺やこごと婆さん、さらには、キレイなお姐さんや優しいお姉さんたちと親しんだあの昔の風景のごとくの。。。

土地の人との、なんともいえぬ暖かささえ感じて、帰ってきました。


画像マラムレシュ地方の村々では、各家の前に一軒残らず小さなベンチが設えられ、その日一日の農作業や家事、労働を終えた村人たちは夕刻になるとそのベンチに三々五々集まってきて、座り込んで、ひととき、雑談や情報交換に相興じるのですね。それが習慣になっている風情。

ブカレストなど大都会では、言っちゃぁなんですが、目線の鋭いロマ=ジプシーの人々がローマやマドリードなど西欧の大都会以上に頻度高く目について緊張させられますが、北部エリアの田舎では、日本ではもう、巡り合うのが難しいほど、なんとも温かな光景に何度も出逢いました。



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画像そのルーマニアは、日本から向かうと。
当然ながら直行便はなく。
ハブ空港で乗り換えても、他の西欧の大きな街の空港へ入るごとくに乗り換え便の本数は多くなく。
なんとも、何とも、遠かったです。


2014年4月19日。日本を発って、乗り継ぎの街で一度眠って。翌4月20日。
首都ブカレストのアンリ・コアンダ国際空港へ入りました。


画像ブカレストはドゥンボヴィツァ川河畔に発達した街で、ドゥンボヴィツァ川の支流のクロレンティーナ川沿いにはヘラストラウ湖やフロレアスカ湖などいくつもの湖が連なって伸びており、着陸態勢に入った機内から見下ろすと、森の緑と水の青の対比が結構きれいだった。

画像アンリ・コアンダ国際空港と旧市街を結ぶエアポート・バスの停留所のある新市街のロマーナ広場の、ブカレストではまだそれほど数多くはない高層ホテルから見下ろした市内の風景。およそ90年ほど昔、アール・デコ全盛の時代には、街の美しさから「バルカンの小パリ」ともたとえられたそうだが、国が共産化して以降やチャウシェスク時代にはアール・ヌーボーやアール・デコ調の美しい建物のかなりが破壊され、無機質な旧ソ連方式の建物群に切り替わったそうだ。その結果か、街を見下ろしても、あまりきれいとは思えなかった。

画像繰り返しますが。。。
首都ブカレストも、マラムレシュ地方から見ればはるかに豊かである。とはいえ。これまで訪ねた西欧圏の街々に比べて、街並は、やはり、どことなく質素で影は薄く。この国、そしてこの街についての知識はほとんど持たぬこちらは、1989年12月下旬の、チャウシェスク大統領を処刑したあのテレビニュースの印象が強烈に脳裏に残っていて。。。

やっぱり、あの革命勃発の広場周辺や「国民の館」と呼ばれるようになった、チャウシェスクの宮殿ばかりが、気になって、興味津々で訪ねました。


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上、及び以下の写真は、チャウシェスク最後の演説が行われた革命広場

画像You Tubeには、1989年12月21日、現在の革命広場に面した旧共産党本部のバルコニーで、偽装されたチャウシェスクを讃える集会が開かれ、動員された10万人の市民らを前に、結果的に最後となる演説をするチャウシェスクの姿をとらえた動画がいくつもアップされています。うち、1本をお借りしました。動揺するチャウシェスクの画面の背後で、革命勃発の引き金となった爆弾らしい爆発音と広場のどよめき、銃声音などが聞こえています。

その、演説が行われたバルコニー。



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革命の犠牲者の慰霊碑。上部に、犠牲者を象徴する赤色。流された血を表している。

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共和国宮殿、現在、国立美術館。

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国立美術館正面の鉄柵に、革命の火が付いた1989年12月下旬の数日間の、この広場で撮影された写真パネルが掲げられていた。

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ブカレスト大学図書館とカロル1世騎馬像。
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クレツレスク教会。
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上、及び下の写真は、チャウシェスクが造らせた巨大な宮殿、革命後の名称が「国民の館」。

画像地上10階、地下4階建て、延床面積330,000平方メートルと、アメリカ・ペンタゴンに次ぐ世界第二位の巨大な建物。現在、議会議事堂として使われている。

内部は、ルーマニア産の色とりどりの大理石が多様に使われ、石の床、壁、天井に囲まれて内部は寒いくらい。
バルコニーから旧市街方向を眺めて、正面に伸びるのは統一大通り。パリのシャンゼリゼを模して造られたそうだ。



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