潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS ペレシュ城。個人的に。欧州城郭中、魅惑度五指入り。

<<   作成日時 : 2014/10/13 18:10   >>

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画像

まだ。
ペレシュ城のハナシです。

いけしつこい 

さっさと終えればいいのに。
長々と。

撮った写真を出来るだけ多く『覚え書』に残し留めておこうという魂胆が見え透いていて。
我ながら、みっとも悪かぁ〜。。。



画像



ペレシュ城。

ヨーロッパの城は、旅好きゆえ、旅行ガイド誌や世界文化遺産案内書などを通じて、かなりのカズの城や砦、宮殿などを観知ったつもりでいましたが。。。
この城のことは、今回のルーマニア旅まで、知りませんでした。

だから、でしょうか。

つまり、予備知識とか先入観なしに観たせい?か。
その美しさや雰囲気に、かなり魅せられました。

画像どんな雰囲気であったのか?

それは、おいおい、写真で『覚え書』しますが。。。
なにしろ、こちらにとっては初めて訪ねる土地であり、勝手が良くわからない不安もあるため、今回の旅で、例のガイドブック「。。。歩き方」を買い求めて持参したのです。

そのガイド誌によると。
この城は「ルーマニアで最も壮麗な城と称えられる」、のだそうです。

画像しかし、こちらの印象では「壮麗」、というほど規模は大きくなく。
むしろ、「可愛い」とか「可憐」とか「愛くるしい」、などという、たおやかなイメージの方が強かったです。

いずれにしろ。
魅惑的な城であったことは事実、でした。

で。
以下、なるべく文章を割愛して、写真を中心に、記録。


画像。。。と、書き出した時は、文章を短く端折ろうと思ったのですが。

書き終わったら随分長くなっていました。
その長い部分は、他愛もない、個人的な、ただの『メモ』であり「覚え書」です。
面白くありません。



画像その前に、書き留めておきたいことが一つだけ。
この城。写真撮影は有料でした。撮影券を入場券とともに買い求めて、撮影券はカメラか胸にピン止めしていないと、写真を撮らせてくれないのですね。
モスクワやサンクトペテルブルグなどロシアの観光施設と同じ、システムでした。


画像そしてこの方式は、書き残し忘れましたが、旅日記としては既に通り過ぎた、首都ブカレストでも、シナイア以降に訪ねた各観光名所でも、同じ。撮影代金は、ルーマニアの物価と比較してみると結構お高く、この旅行中、相棒と二人の撮影代金は、ユーロ換算でおよそ150ユーロほど必要でした。

さすが旧共産主義国。
ロシア並みに。簡単に無差別公開せず、写真情報も、しっかり国家、あるいは公的機関で管理し、“資本主義経済”の悪慣習?=利益=を、追認、計上中。。。

ならばこちらも。
目いっぱい写真を載せて、もとをとっちゃうぞぉ〜〜


画像

既に一度書いたことの繰り返しで何だが。。。
城郭南面の、シナイアの谷を見下ろす緑一面の光景が、城の魅力に彩りを添えるようになんとも美しく、魅惑された。



さて。
以下、≪読み飛ばし≫部の始まり、です。
面白くありません。




画像

人を感動させるペレシュ城の美しさの秘密は、周囲の緑の大自然が一つ。次いで、外壁を飾る、ドイツ風の木組みの美しさと、柔らかで優しいイメージの独特のベージュ色のモルタル壁の上に塗り上げられたフレスコ画の美しさ、が二つ目。三つ目は、その城郭周囲に配された三つの庭園に置き並べられた彫像と鉄の造形の織り成す芸術世界。
それぞれが自己主張せず、見事に調和していたところにある。と個人的に思った。また、次回に内部の写真を載せるが、内部の装飾や飾りつけもいたずらにきらびやかではなく、節度ある知性的な雰囲気に感嘆した。

というわけで。最初は、城への出入り口を造る、いわゆる「升形」とか「虎口」にあたる小さな中庭から眺めたフレスコ画や中世の騎士を刻んだ彫像など城の外周りを。次いで、彫刻が置かれた庭園の風景を。。。


画像で。
もう一度、ペレシュ城。

この城。
建てたのは、←初代ルーマニア国王、カロル1世。

ルーマニアを訪ねるまで、名前はもとより、国王とはいかなる人物であるのか?? まったく知りませんでした。

が。
。。。人間って。たとえ我々、市井の一介の庶民でさえ、「人それぞれの一生は、物語が最低一本は作れるほど、そrぞれにドラマチック」、と言われる通りでしょうし。ましてやカロル1世は、無学なこちらだから知らなかっただけで、一国の元首に48年間も君臨した方ですから。。。


画像調べてみると、やっぱり。
波乱万丈の人生を送った人物でした。

この人の人生でとくに興味深かったのは、人生の終盤部分。
名作『ハムレット』ではありませんが、「To Be or Not to Be 」と、人生終盤、最後の総仕上げで難問にぶつかって迷いに迷った人生を送ったに違いない、と、勝手に想像して。このご仁の生きざまは。。。と、のめり込みました。

画像さて。では。この人のどんな物語のどういう生きざまの片りんを読み、聞き知って、彼のその時々の心情や想念を思い描いて、勝手に没入していったのか??

♪♪べべんべんべん〜〜♪時は元禄ぅぅ〜、ではなかった、♪19世紀半ばから20世紀初頭ぅぅ〜〜♪

と、馬鹿、書いていますが。。。

画像その、カロル1世の終盤の、ちょっと劇的に想える出来事を書き残す前に、彼の人生の概略を。

日本では薩長同盟が成立、日本の未来を憂う若き下級武士たちが火をつけた幕末動乱のころの
慶応2年=1866年に、スイス・ドイツ・オーストリアが国境を接するボーデン湖近くの南ドイツの小さな街、ジークマリンゲンの貴族の子として誕生。27歳の時、先代ルーマニア公がルーマニア貴族たちの反乱により退位、亡命したのを受けて、縁戚関係にあるナポレオン3世の推薦を受けて、ルーマニア入りしたのだそうです。

画像以降、この人は、1914年、75歳で死亡するまでの48年間にわたってルーマニア公→ルーマニア国王として在位。
ヨーロッパで中世〜近世〜近代にかけて続出した、一種の“落下傘”君主であったわけですが、まじめに、ひたむきにルーマニアのために努力した誠実な人であったようで、この間、オスマン帝国の衰退、ロシア帝国の伸長、ハプスブルグ家の力の劣化など、バルカン半島一帯での栄枯盛衰の影響もあって、ルーマニア経済の発展などに力を尽くした国王として、現在もなお、この国の人々から尊崇を受けているようでした。

画像ペレシュ城は、そのカロル1世ら、王室の家族の夏の離宮でした。
「夏の」といっても。雪解け後の5月から11月まで王家はこちらに滞在しており、ルーマニアの政権中枢に携わる人々やその一族も、カロル1世の人生終盤のころは当然、国王に着き従って、この期間はシナイアに移動していたのです。


画像


画像入り口の、チケット売り場のある「升形」の一角に、カフェがあった。

画像そのチケット売り場の壁面に飾り付けられていたカロル1世と後継者のフェルディナンド1世のレリーフ。
レリーフが見下す下には、↓中世騎士たちの像が並ぶ。



というわけで。
こういう状態の中での、国王の人生終盤のころのハナシです。

画像歴史書を紐解くと。

カロル1世の人生最大のヤマ場は、第一次世界大戦の始まった年であったでしょう。きっと。
75歳でペレシュ城で倒れ、生涯を閉じた1914年10月10日までの日の、半年ほどの間。

だったのだろうと、勝手に想像。。。

画像第一次世界大戦の火が着いた、バルカン半島での一発の銃弾。
あの有名な、いわゆるサラエヴォ事件が勃発したのは、同じ年の6月28日。

シナイアのペレシュ城から直線距離で600キロほど離れたセルビアのサラエヴォで。
以前、一度ならず、何度も書きましたが、わが家の相棒をはじめ日本女性陣にも熱烈ファンの多い“シシィ”こと、エリーザベトの夫である、オーストリア=ハンガリー帝国の実質的な最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世。その皇帝の皇位継承者フェルディナント大公が民族主義者に暗殺され、オーストリアはセルビアへ宣戦布告。これが、同盟軍=ドイツ・オーストリア・オスマントルコほかvs連合軍=英・仏・露・米・日ほか、の地球規模での戦争につながっていったことは、広く知られる通りです。


画像



このサラエヴォ事件で。ルーマニアを含むバルカン半島一帯は一気に火薬庫へと変わりました。

一方。
一発の銃声がバルカン半島に鳴り響いて戦争の火がめらめらと燃え上がった1914年6月28日からさかのぼる31年前。つまり、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの三国同盟が締結された翌年の1883年10月18日。

画像ルーマニア国王、カロル1世は、生まれ育った故郷であるドイツのビスマルク首相と、秘密協定を一つ結んでいました。

その秘密協定は、三国同盟のどれか一つの国が、当時、ヨーロッパ西部やバルカン半島へ公然と侵略を進める事態になれば、三国同盟諸国に加わり、ロシアに対峙する、という内容でした。


秘密協定だから、カロル1世は国民及びルーマニア首相ら政治家トップに伏せていた。
協定書に署名した時は、彼は多分、そういうことはまず、起きないだろうと信じていたのではないでしょうか。

しかし、彼の予想と期待を裏切って、ヨーロッパは、帝国主義時代の侵犯征服の論理と、階級間の激しい憎悪のせめぎ合いが爆発したのでした。

画像こちらで飾られていたガイド版によると。

サラエヴォでの一発の銃声で始まった同盟国×連合国の対峙に、根が真面目肌であった国王は、いたく動揺したのだそうです。

で。
彼はかつて若かりしころに、秘密協定書にペンを走らせた当時の約束もあり、同盟側に組したかったのですけれども。秘密として裏切ってきた国民たちの声や世論は、英、仏、伊側へ、連合国側への旗幟を指示。

画像サラエヴォで銃声が響いた3週間ほど後の7月21日。

国の方針を定める会議がペレシュ城で開かれました。

集まったのは、国王、首相以下、20数人の国の指導部。国王が白状した秘密協定あり、の事実に、会議は揺れ動いたそうです。そして。。。長い議論の末ルーマニアは中立、と決定します。

画像一気に老け込んだ国王は、その会議のおよそ80日後。

つまり、1914年10月10日、ペレス城で息を引き取ったのでした。

ルーマニアはその後、王亡き後、結局、連合国側で参戦。国土は蹂躙されて、軍隊、国民あわせて115万人もの犠牲者を出して、革命を経たロシア、ソヴィエト連邦の壁の内に飲み込まれていく。。。

画像ペレシュ城は、その時代の節目の拠点であったのでした。

なのに。。。。

次回で載せますが、内部の印象も、城の外観と同じく、たおやかで優しいイメージで。。。


画像かく、入場したのです。
城内は、ちょっと、物思いにふけりたくなるような、そんな雰囲気も感じる、落ち着いた場所でもありました。

 



 

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