潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS 百日紅は観ず。晩秋に躑躅咲く、津和野・鴎外旧居。

<<   作成日時 : 2014/11/26 00:23   >>

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津和野、森鴎外旧居
晩秋、11月中旬なのに。躑躅の花が咲いていました。


画像



いうところの返り咲き、とか狂い咲きと言われる現象なのか?
あるいは、「十月桜」のような二度咲き品種なのか??
桜や藤、桃で、春と秋、二度咲く花はこれまでも観たことはありましたが、躑躅では、生まれて初めて。

画像品種は「シロヤマツツジ」でしょうか。
花は初夏のように密生せず、徒長した枝先の中に隠れるようにまばらに白花をつけた樹高の低い株、ふた株。鴎外旧宅前庭の南東隅に置かれた躑躅は、十月桜のように花に赤みはみじんもないこともあってどこか物悲しく、傾いた日差しの中で、この季節の季語のごとくに「秋寂ぶ」の佇まいをうらうらと漂わせていました。

画像幕末〜明治期の思想家・西周とともに、津和野が生んだ偉人、森鴎外の旧宅は、“小京都”と譬えられる津和野のメインストリート、←殿町通りから南、津和野川を津和野大橋で越えて、ぶらぶら歩き継いでおよそ15分ほどの、津和野城跡の丘の麓の、津和野川沿いにありました。


画像辺りは、幕末期までは殿町界隈と同じく、やはり武家屋敷街であった一角、とのことでした。

殿町通りが大身の家老など上級武士たちの武家屋敷跡の街ならば、こちらはきっと、徒士や軽輩の屋敷跡であったのでしょう。

画像辺りは今では、アルミサッシやコンクリートブロックなど戦後、高度成長期前後の新建材などを使った小さな店構えの商店や工場での大量生産住宅、プレハブ工法の家などに切り替わっていて、殿町のような、江戸期の武家屋敷跡や町屋造りなどは見えず、明治、大正期の味わいを残した和風住宅もなく。
日本全国、田舎町のあちらこちらでよく見かける、ありふれた光景の街筋でした。


画像



その街筋の中で。

号=鴎外、本名=森林太郎の旧宅は、付近で唯一、明治期・和風の家の味わいを残す建物でした。

庭の一角に建てられていた案内板によると。
典医であった鴎外の父が嘉永六年、1854年の大火の後に建てたもので、森家が東京に移住後、他家に渡っていたものを、鴎外没後33回忌の昭和29年、寄贈を受け、町が旧地に戻して保存修復したものだと教えていました。

画像車や大型バスはもとより、ダンプカーさえ走る交通雑多な片側一車線の、申し訳程度の歩道しか敷設されていない殿町から続く道筋で。右手、津和野警察署の前を通り過ぎたら、間もなく、大型バスや車が停まる駐車場が見え、「森鴎外記念館」の看板が立ち、隣接して鴎外旧宅への道筋が書かれていました。

そちらからは、歩いて1分ほど。
幅一間ほどの小道へ折れて、津和野川へ向けて進むと、左手に、土佐漆喰でしょうか。高さ30センチほどの石積みの上に黄色で仕上げた築地塀が見え、その中央に素朴なたたずまいの棟門が口を開けていました。


画像門をくぐると。
右手、左手にそれぞれ、年輪を刻んだ桜。幹は蔦と苔に覆われていて樹種は分からなかったですが、多分、ソメイヨシノ。

鴎外が、津和野時代、少年期の思い出を織り込んだとされる、明治42年(1909年)に発表した『ヰタ、セクスアリス』で。

『この辺は屋敷町で、春になっても、柳も見えねば桜も見えない。内の塀の上から真赤な椿の花が見えて、お米蔵の側の臭橘(からたち)の薄紫の芽の吹いているのが見えるばかりである。』

と書いているから、元よりこの庭に桜などはなかったのだろうと思います。しかし。。。春になれば、満開の桜花は、この家に良く似合って見えるのではないのか、そのころにもう一度、この家を訪ねてみたい、などと思わせました。


画像



鴎外旧居、記念館とも、バスを連ねた団体客で混雑していました。

そして。
『ヰタ、セクスアリス』では、同じように。

『僕は裏庭の前で、蜻●(トンボ=偏は「虫」、旁は「廷」)の尻に糸を附けて飛ばせていた。花の一ぱい咲いている百日紅の木に、蝉が来て鳴き出した。覗いてみたが高い処なので取れそうにない。』

とも書き残しています。
けれども。サルスベリの木は、どこにも見えませんでした。

画像そして、生家は。

平屋建て。規模は、予想よりも大きくはありませんでした。
玄関は、式台はなく、畳半畳大、ほどでしょうか。囲炉裏を切った畳敷きの部屋が五つほど。質素ながら、往時の侍住宅としてのしっかりとした造りを見せていました。

北東隅に、鴎外の少年時代、林太郎の勉強部屋。現代風に言えば、4畳半ほどの広さでしょうか。この部屋で、鴎外は東京へ移住するまで、つまり10歳まで、勉学に励んだのでしょう。


画像百日紅は、自分にとって、ちょっと不思議な木です。
花の咲く中高木、花木は、桜や梅、桃などのように春咲きがほとんどなのに、蔓性の凌霄花(ノウゼンカズラ)や常緑の夾竹桃(キョウチクトウ)と同じころ、酷暑の季節に色鮮やかな花を、文字通り「百日」か、それ以上の長い間、次々に花咲かせるではないですか。

画像木肌も、黒くごつごつとした桜や梅と違って、ひと味変わっています。ところどころに瘤こそありますが、滑らかな赤褐色のすべすべ肌で、毛皮のない裸の犬。。。

。。。何という名前であったか? 犬種名を忘れちゃいましたが。。。

あんな裸の犬か毛の生えていないモルモットのように、どこか普通ではなく、まがまがしくも見え、違和感がある。


画像でありながら。。。
つまり、ひ弱でなよなよした樹種に見えながら、実は、強い。

こちら、雪国に暮らしていますが、わが家の庭の百日紅を見ていて、しみじみ、なんと強い樹なのだろうかと思ったことが、何年か前にありました。

百日紅は一年で一メートル以上も枝先の伸びる木です。伸びたその枝先に花をつける。
で、わが家では。桜と同じく、雪吊りなどはしたことがないのです。


画像ある年。
一夜で降雪50センチを超す大雪に見舞われた朝。
葉を落した百日紅の、地際から1メートルほどの位置で幹から伸び出した太さ5センチほどの数本の枝は、その朝、雪の重みに耐えられず、地際から人間の背丈ほどの位置で弓形に曲がって、ほぼ全体を庭の積雪の中に埋めていました。押し潰されていた。

「これはもう駄目だな。雪解けを待って庭師さんにお願いして剪定してもらおう」とその時は思ったのですが。
3週間ほど後。積雪が減り始めたころ。朝、庭を眺めると、雪の下にあった枝の一本が、覆い被さった雪を跳ね飛ばして立ち上がり始めていたのです。さらに2〜3日後。雪ノ下の残る枝もすべて立ち上がり、以前ほどの高い位置ではないけれども、枝先を天に向けて従前の樹姿に戻り始めていました。


画像桜や梅ならば、こういう状態になった枝は全部、折れてしまうのですが、百日紅はしなやかに、さらりと敵対するモノをやり過ごして何事もなかったように強く生き抜く、そういう樹なのでした。

暑さのせいで、酷暑の日差しの下で咲く百日紅をじっくりと眺めたことはあまりありません。
しかし、写真で撮って紙焼きして眺めてみると。ひ弱そうに見えながら、実はそうではなく、しなやかでたくましく、ちょっとやそっとでは枯死することはない樹の花とは思えないほど、美しいのですね。
拡大してみると、マリー・アントワネットの時代の、フリルのいっぱいついたロープで着飾った婦人のように華麗できらびやかです。



画像以下の写真は、津和野の残る光景。
まずは、太䜵谷稲成神社から。



画像鴎外の小説で、百日紅が登場するそれは、ほかにもあります。
たとえば、小倉の第十二師団軍医部長として赴任した当時の体験を基に、『ヰタ、セクスアリス』と同じころに書かれた『鶏』では。。。

画像『借家は町の南側になっている。生垣で囲んだ、相応な屋敷である。庭には石灰屑を敷かないので、綺麗な砂が降るだけの雨を皆吸い込んで、濡れたとも見えずにいる。真中に大きな百日紅の木がある。垣の方に寄って夾竹桃が五六本立っている。』

画像ということで、小倉の鴎外旧居跡には、百日紅が置かれているらしいですね。こちらは、まだ小倉は訪ねたことはないのですが、友人から聞きました。



画像

津和野カトリック教会。

画像津和野の街には、小さな街なのにいくつもの美術館やアートギャラリーがあった、以下の写真は、そのうちのいくつか。


画像結局。
鴎外は大正11年(1922年)、本郷台、団子坂の「観潮楼」で死ぬまで転居を繰り返しているけれども、庭に「百日紅」があったのは、生家と小倉だけ、であったのでしょうか。それとも、他にもあったのか?

司馬遼太郎は、『街道を行く・37・≪本郷界隈≫』で、この「観潮楼」のことを書いています。
少々長いですが、引用して。。。

画像『本郷台の東の縁辺の台上を歩いてみた。
この当たりも、“海”に向かって、急勾配をなしている。
本郷千駄木の団子坂もそうである。
その坂の上(本郷駒込千駄木町二十一番地に、森鴎外(1862〜1922)が住んでいた。
鴎外は、それより前、近所の本郷駒込千駄木町五十七番地にいた=注・後、ロンドンから帰国した夏目漱石がこちらに住み、現在は「猫の家」跡として知られる有名な話=のだが、明治25年(1892年)に越してきて、終生のすまいになった。』
『いま鴎外旧居跡は、文京区の所有になっていて、区立鴎外記念本郷図書館になり、団子坂に面して門を開いている。』



画像個人的に、この司馬遼太郎著『街道を行く』シリーズは好きで、これまで旅の参考書として数多く利用し、この覚え書でも、『愛蘭土紀行』
をはじめ何度も引用してきています。

「観潮楼」跡の文京区立本郷図書館鴎外記念室は、若いころに何度か訪ねました。大きな銀杏の木が印象に残っていますが、敷地に百日紅はあったのかどうか? 
そして、この図書館はその後、鴎外記念館として生まれ変わったらしいですが、その記念館誕生後は、残念ながら訪ねたことはありません。


画像上京して、一家が揃って最初に住んだ向島の家→には、百日紅の木はありませんでした。

ドイツ留学から帰国後の最初の結婚で住んだ旧池之端花園町の赤松家の、現在はホテルとなっている旧居も、一度泊まって『舞姫』を執筆した部屋などは見学しましたが、当時の庭に百日紅はあったのかどうか??

どうだったのでしょうか。


画像


話は変わります。

津和野の旧居の庭に。
鴎外の詩『扣 鈕(ぼたん)』を刻んだ石碑が建っていました。

『 南山(なんざん)の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し

べるりんの 都大路の
ぱっさあじゆ 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせまへに

えぽれっと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん

はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらをの 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕 』


画像ベルリンで二十年前に買ったコートのカフスボタンの片方を、日露戦争の戦場で失くしてしまった。そのころの、肩章をつけた友人も金髪を揺らせていた少女も、老いたか、あるいは死んでしまったか。。。と綴られています。

ひょっとすると、そのボタンを一緒に買ったかもしれない、その金髪の少女のことを思い出して書かれた詩なのか。。。
はるかドイツで、鴎外とドイツ人女性との秘めた恋物語は、これまで映画やテレビでも扱われてきていますが。。。

その女性は、小説『舞姫』に登場したエリスという名のひとであるとか、いや、そうではない、とか。さらにその名は、鴎外帰国の2週間ほど後、鴎外末妹の小金井喜美子が過去の出来事を追憶しながら書いている通りの、鴎外の後を追って横浜に着いた、舞姫の「エリス」と綴りは同じ「エリーゼ」という名の人であったのか、それとも、異説を唱える人々の言葉通り、名前は違う別の女性とのことであったのか。。。


画像


いずれにしろ。

かく、ああだこうだと国を隔てた鴎外とドイツ人女性との、ひょっとすると熱い思いもあったかもしれないハナシの断片を思い出しながら眺めていると。
津和野の街の、明治、大正期の日本の文壇を代表するこの人の『扣 鈕』の記念の石碑は、寂しく哀しく、はかなげに見えて仕方がありませんでした。

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