潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS 『花燃ゆ』の舞台。萩、松下村塾界隈をもう一度。

<<   作成日時 : 2015/01/06 20:36   >>

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雪国の冬の夜空で、星を見ることは滅多に出来ません。
今年の、大みそかから元旦の朝にかけても、星空はなし。
何度顔を上げても、星は見られず、でした。

画像←元日未明、というか、深夜のわが街、JR駅前の光景。雪はこのくらい降り積もっていた。


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画像同じく、JR駅前、↑トラム乗り場の光景。この日夜の積雪はこの程度。→同じ場所の、この日午後、雪はさほど目立っていなかったが、この日の夜から降雪は激しくなる。


日記。。。ホンモノの方。。。を開いてチェックしてみると。
これで3年連続で、年明け未明の星空を見上げることは出来ていません。
今季も、雪雲が一面頭上を覆っていて、オリオン座のリゲルもおおいぬ座のシリウスも、昴も、冬の大三角も、ノー。
顔をあげても、網膜に映り込む光は片鱗もなし。ただただ真っ暗。

雪国を終の住み家と定めたこの十年分の日記を調べてみると。
31日の深夜遅く、というか、元日の未明に昴をはじめとする星々を見上げることの出来た夜は、わずか2度。
つまりたった2回の年越しだけ。
これも、この土地の宿命なのでしょう。


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↑地元の公園の夜景。

画像空に星は見えないのに引き比べ、冬の“地上の星”は、わがふる里でも増え続けている。きれいではあるのだが。。。この光が明る過ぎて、空に雲のない夜でも、最近の冬の夜空は星が見えにくいのが残念だ。


朝寝坊派なもので。
初日の出などの日の出との遭遇は人生、とっくに諦めています。
けれども。
元日未明の、冬ならではの降る星空を眺められないのは、なんとも寂しい。
これも、雪国の宿命として、受け入れるべきなのでしょう。





You Tubeからお借りしました。


こちらでも最近は、スケールや規模はともかく、イルミネーションがあちらこちらで点灯されていて、地上の“星々”は、上下に写真を並べたごとく、比較的に賑やかです。


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が。
やっぱり、凍てつく真冬の天上の星々のスケールから比べると。
当たり前ですが、大自然の壮大さには及ぶべくもなく、言葉は悪いですが、どことなくみみっちくて、寂しいですね。


  
     
           


画像以下。再び、昨年晩秋の、萩を訪ねた旅の「覚え書」です。

大河ドラマ『花燃ゆ』の第1話、 「人むすぶ妹」。
面白かったですね〜。期待していた以上に楽しめました。

ドラマ作りや役者の世界はまったくの門外漢、無知蒙昧の徒なもので、番組評とか演技評とかを出来る能力も資格もありませんが、正直、楽しかった。

ヒロイン文の子役時代を演じた女の子、流れたキャスティングのテロップを見ていたら、山田萌々香ちゃん、というのだそうですね。彼女の演技に、涙もろい熟年世代である我ら夫婦、そろってホロリとさせられました。


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↑ 松下村塾全景。


そして、何よりも。
松陰の実家、杉家の庭の物置小屋を松下村塾へと改築する場面での、久坂玄瑞や高杉晋作ら門下生が汗を流す中、高杉晋作が久坂玄瑞にふっかけた「ナポレオンと豊臣秀吉が戦こうたらどっちが勝ったと思う?」の議論。
玄瑞答えて「武器も時代も違う」と、取り合わなかったようでした。

この挿話には意表をつかれました。

画像確かに、二人は230年ほど時代がずれて生まれています。
そして、この議論をふっかけた当時、玄瑞は17歳、晋作は19歳。師の松陰は27歳。松下村塾の俊才2人は、今風にたとえてみれば、高校2年生と大学に入ったばかりの年齢。

松下村塾の塾舎が完成したのは、安政4(1857)年11月。ナポレオン・ポナパルトがセントヘレナ島で心労を重ねた末に病死したのは1821年。

長崎・出島を唯一の窓口に西洋事情が細々と入ってきていた鎖国中の日本で。秀吉の墨俣一夜城の奇策や絶妙の城攻めと並ぶ、あのナポレオンのアルプス越えの奇襲策などは、ナポレオン死後、わずか30年余りで、こんなにも既に日本に伝わっていたのか?


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それとも、ハナシを面白くするための脚本の創作であり、フィクションなのか?と訝しんだのですが。。。
調べてみたらおそらく、日本の江戸期三百余侯のうち、先進的な長州藩や薩摩藩、土佐藩などには「情報」として既に流れていたらしいではないですか。
そして松陰自身も、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と、孫子の兵法で来航したペリー提督の黒船で密航未遂事件を起こして獄中生活を送っているのですから、その松陰からナポレオンの人物像や故事は、松下村塾で語られていたに違いないですし。


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↑ 北方警備視察を目的とした脱藩、黒船密航未遂事件と2度にわたって謹慎蟄居、三畳半の幽囚室で後進の指導に当たった、実家、杉家の旧宅。

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画像国会図書館に。
岸和田藩医で蘭学者の小関三英が、松下村塾の改築塾舎が完成する前に、既に『那波列翁勃納把爾的(ナポレオン・ポナパルト)伝』の翻訳和書を出していました。

つまり、『花燃ゆ』のドラマは、しっかりとした史実が残っていたのか、あるいは、かなりの高い確率で、事実であったとの傍証を得て構成されているのでしょう。
第一話を見て、そう、思いました。


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御一新、つまり明治維新を迎えることになる、同じ江戸末期のこのころ。
わがふる里。

支藩2つを含めた地元藩では、日本海に突出した半島とその東の深く切り込んだ湾を抱えていただけに海岸線は長く、ロシア船を中心に異国船の沖合通過目撃情報は結構あり、羽咋、宮崎城址などに遠見所、つまり監視台を設けて海防警備に尽力していたようです。

その中、安政6(1858)年4月、ロシア船が湾内深くに侵入して伏木沖で小船を降ろし、水深測量をするという非常事態が発生。上を下への大騒ぎになった、と、これまた、祖父らからよく聞かされた江戸末の大事件ですけれども。。。
でありながら、家中の大勢は佐幕的な、あるいは政治に疎い田舎侍であったそうです。


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以前、世田谷の松陰神社の写真を載せたが、こちらが本家本元の松陰神社。

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画像が。
ごく少数とはいえ尊王攘夷派もいなかったワケではないのだけれども。
元治元(1864)年、藩主が蛤御門の変の際、御所を守備せずに帰国してしまった事件の責任を問われて一網打尽に斬首、切腹の刑などに問われ、尊攘派は壊滅した。おかげで、大藩ながら、歴史にまったく名を残すことなく、ご維新におくれをとった、と習いました。


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画像結果。
御維新にはほとんど役立つ人材は育たず。
上士はともかく、百石取り以下の下士軽輩たちは維新後、塗炭の苦しみを味わい、同時に、藩内の町村も一時期、激しく衰退したそうです。。


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画像そこへいくと。
いま、また大河ドラマで、主人公として活躍する萩の城下の当時の若き志士たちは、いかに有能、果敢に学び、会得し、果断に日本国のためにの働いたか。。。頭の下がる思いです。

そして。
今回の物語は、この後、どう続いていくのか。。。
とても楽しみであります。


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旅の記録とメモ、のつもりのブログなのに。
大河ドラマ関連のハナシばかり書いていますね。


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画像で。

最後に、ちょっと、だけ。吉田松陰ゆかりの、旧松本村、現在の椿東地区の、名所を縫う散歩コースのハナシを。

松陰神社入り口に案内板が掲示されていて、時間もあったので、エリア内の玉木文乃進旧宅、伊藤博文旧宅や別宅などの見学を兼ねながら、歩いてみました。

画像坂道が続く道筋は、毛利藩主を祀る東光寺に続く参道であった由、ですが、その道筋の、イヌツゲ、ウバメガシ、カイヅカイブキ、キンモクセイなどの生垣がとても美しく、感じ入りました。参道のうちの、新しい方のルートであるために「新道の生垣」と名付けられているそうです。

こういう道筋は、いかにも萩らしくて、古い武家社会の質素な、ある意味、素朴な、質実剛健の気風の美しさを感じました。


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