潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS 出だしはフモール修道院。赤いフレスコ画の教会。

<<   作成日時 : 2015/02/22 22:26   >>

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昨21日。庭の早咲きの梅の花が咲き始めているのに、夕刻になってようやく気づきました。
咲いたのは、多分、最低気温で7℃、3月下旬並み、と気象予報していた、一昨々日ではないでしょうか?


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画像ここ数日の寒波の緩みが、影響したのでしょう。
今冬は雪が多かったせいか、昨年よりも10日ほど、開花は遅めです。
残る梅の木々は、まだつぼみ固し、の状態です。例年に比べて雪が多かったから、おそらく、3月入りしないと咲き始めないでしょう。






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画像さて。
ルーマニア、北モルドヴァ=ブゴヴィナ地方旅行記「覚え書」の続きです。

今回は、少々理屈っぽく文章も長いもので。
以下、「だ、である調」、すなわち常体文で「メモ書」します。
手前勝手の、これこそ、ホント?!の「覚え書」です。


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●午前9時16分、フモール修道院到着。
どちらの国の人であろうか。10人余りのグループ客がひと組、先着していた。

フモール修道院に着くと。下部は石造り、上部は木造りの2階家=鐘楼↑ の、その直下の両開きの木の扉が、ゲートとなっていた。

その扉を押し開けると、右手の壁に修道院の沿革を記したルーマニア語だけの案内板。
チャウシェスク体制が崩壊して、再び、こちらで公然と修道院体制が取られるようになってからは、こちら、女子修道院なのだそうだ。東方正教会系の言葉で、日本語に訳して言えば、名前は「生神女就寝女子修道院」。少しは耳慣れたカトリック系の名称に置き換えれば「聖母被昇天女子修道院」。

画像左側に黒の僧衣をまとった、ふくよかな体躯の笑顔の尼僧が座る、入場窓口。
こちらで入場料と写真撮影代金を支払って、ゲートを通り抜けた。


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礼拝堂後陣外壁のフレスコ画。


●以下、こちら、“全身くりからもんもん”、総刺青のごとくの、世界遺産のフレスコ画修道院群の、その描かれた「絵」について、メモ前書き。

世界遺産のフレスコ画で覆われた修道院はどちらも、その貴重なフレスコ画の維持、保存のために、入場料とは別に写真撮影代金も必要だった。内部の撮影は、代金と関係なく、当然、撮影は許されていなかった。ただ一カ所、外壁のほぼ全体の剥離が進んだアルボーレ修道院を除いて。
そして。撮影代金は、これだけの世界遺産だからもっと徴収してもいいのではないのか? と思うほどの額だった。。。


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●フモール修道院。代金を払ってゲートをくぐり、敷地内に入る。
と、西へ向かって奥行き100メートルほど、左右=南北も同じほどの長さの、ほぼ正方形の旧修道院敷地の中央に、目的の礼拝堂はたたずんでいた。

カトリックやプロテスタントでは、たとえば、南向きのシェナ大聖堂とか、北向きのフィレンツェのサンタマリア・ノッヴェラ聖堂とか、西に向くルーアン大聖堂とか、祭壇の向き、方向の異なった聖堂や教会もあるが、東方正教会では、ほぼ間違いなく、ほとんどは太陽の昇る方向、東に祭壇は位置している。

このフモール修道院を含めて、全身、フレスコ画で覆われたこの地区の世界遺産の教会も、その基本をしっかり守り、すべ、東に向いて建てられていた。
結果、フモールも、敷地の東側にあるゲートから入ると。
必然的に、真っ先に礼拝堂の後陣の外壁が目に飛び込んできた。


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●そのアプスの外壁に描かれていたフレスコ画は、数多い聖人たちと天使たちの姿。

6段に分かれて、最上段を除き、一枠に2人の聖人たちが描かれていた。アプスの東北側、やや消えかかっている絵は、イエス・キリストの家系図ともいえる『エッサイの木』の部分。

●以下、このフモール修道院以降に訪ねたそれぞれの礼拝堂のフレスコ画とも、描かれた主題は、各壁の位置など細部の違いはあるとはいえ、基本的に、このフモール修道院とほぼ似通っていた。


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●フモールの礼拝堂。
修道院の受付で買った案内書によると。
創建されたのは1530年、フレスコ画が描かれたのはその5年後。
当時のモルドヴァ公国領主ペトゥル・ラレシュ公の配下、最高会議議長であったテオードル・ブブイオグ大臣とアナスタシア夫人が夫婦で献納した、と書かれていた。↑ 南外壁に碑文も残る。

そのブブイオグ、アナスタシア夫妻と聖母子との光景もまた、外壁南面のフレスコ画の中の碑文とともに、堂内の内壁にも描かれていた。

●外壁は、南面を除いて、長い間の風雨による劣化、色落ちが進み、特に、↓ 北西風が当たる北側と西側の色落ちが激しく、北側の外壁はほとんど判別不能だった。


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●南壁の絵。

描かれていたのは、正教会ビザンツ聖歌で歌われる聖母賛歌「生神女マリアのアカフィスト(Akathist for Theotokos)」の物語に沿った、つまり、日本人に広く知られているカトリックのそれに置き替えて言えば、生神女=聖母マリアの受胎告知をはじめとする聖母マリア伝やルカによる福音書で知られる、キリストがたとえ話として話したとされる「放蕩息子の帰還」など。


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それらのハナシのうち、ビサンチン帝国、コンスタンチノープルに攻め入って城壁を取り囲んだ紀元626年のペルシャ人、アヴァール人の攻撃に対して、皇帝の進軍の間、留守を預かるセルギオス総主教は聖母のイコンを高く掲げて自陣の兵士たちを鼓舞し、聖母のおかげで勝利をつかんだ、とされる「聖母賛歌」の場面の絵は、攻め入る兵士たちの様子はすべて、コンスタンチノープルが陥落した1453年の故事とは正反対であるにもかかわらず、ペルシャ兵ではなくオスマン・トルコ兵の姿として描かれていた。


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この礼拝堂が創建された当時。
こちら一帯、モルドヴァ公国の人々にとっては、およそ半世紀〜四分の三世紀ほど前に起きたオスマン軍の侵攻の方が、よほど身につまされる事件であった。。。そういうことで、オスマン軍によるコンスタンチノープル壊滅であった事実を、ペルシャ侵攻の故事の中であえてすぐ近くの歴史事実を曲げて、というか、粉飾したのだろうか。そういう、この地方の人々の思いが、フレスコ画からは、ひしひしと伝わってくるように感じた。


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●西壁柱頭とポーチの絵。

西日が、この地方でも強く差すのだろと思う。風雨にさらされる最西端の柱に描かれた絵は、色落ちして判別不能だった。
その柱の内側、つまり、三方から風が入り吹き抜けていく屋根の下の、堂内への入り口ドアが一方の壁に開く、現代風に言えばバルコニーにあたる壁面には、「最後の審判」のフレスコ画。真っ赤な血の海?なのか、火の柱なのか。竜巻風に上に伸びる赤い柱の絵の中に、女性たちが描かれている。受付で買ったガイド本によれば、この地方の当時の人々は、悪魔を、老いた売春婦として認識していたという。怖い存在は、年老いたその道の人々???

周囲には、生きていた間の罪状を計る天秤や罪人を突き落す悪魔の姿も描かれている。


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●内陣の写真は撮れなかった。

大切に維持されてきたに違いないと思わせる、鮮やかな色彩が床から天井までびっしりと埋めていた。
絵柄はキリストと聖母、この修道院を献納したブブイオグ一族の姿など。


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●北壁

庇の下の一部にかすかに色が残る以外、フレスコ画は剥脱していた。

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●バシレ・ルプーの塔

現在、修道院は木造りの塀に囲まれているが、創建後には、修道院は石造りの防護壁が築かれ、その一角に17世紀半ば、モルドヴァ公国の王子バシレ・ルプーの手により、城塞の役割も担って塔が建設された。
塔は高さ8メートル。

防護壁はその後、崩れたがこの塔に接続して下部の一部が現存していた。


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