潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS 魔界世界ホテルから、笑って死迎える「陽気な墓」へ。

<<   作成日時 : 2015/07/09 20:13   >>

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映画『パリよ、永遠に(Diplomatie=外交)』を観てきた。

パリ解放70年目にあたる昨年夏、パリをはじめ欧米各地で公開され、話題を集めた映画である。

日本では今年早春、遅ればせながら初公開された。
しかし、今年春は野暮用や旅。。。ま、旅も野暮用ではあるが。。。などで観る機会を逸していた。
その間、わが街の映画館でも上映されることを知り、待ち兼ねていて、梅雨入りしてようやく上映が始まり、観ることが出来た。

画像映画の内容は。。。

作家ドミニク・ ラピエール(Dominique Lapierre)とジャーナリスト、ラリー・コリンズ(Larry Collins) 共著により、1965年に出版された、パリの解放の史実を緻密に追跡したノンフィクションドキュメンタリー『パリは燃えているか(Is Paris burning?)』をもとにした、第二次世界大戦次の、パリ解放記録の一作である。

作品『パリは燃えているか』の後。
翌年にカーク・ダグラスやグレン・フォード、イブ・モンタン、ジャン・ポール・ベルモンド、アラン・ドロン、レスリー・キャロンらが出演して映画化され、同名タイトルの映画は世界的にヒットした。

当時、こちらはまだ社会人になったばかりの尻の青い若造で、花の都、パリは当然、ローマもロンドンも行ったことなどなく、パリの街の“価値”についても無知であったのだが。。。

もちろん、映画は観た。


今回の映画『パリ。。。』では。

ドイツ軍司令部のあったチェイルリー公園を見下ろす名門ホテル、ル・ムーリスを舞台に、ヒトラーの“パリ焦土化作戦”と、それの阻止に動いた当時の中立国、スウェーデン外交官ラウル・ノルドリンク駐パリ総領事vsドイツ占領軍パリ司令部司令官、フランツ・フォン・コルティッツの、実在した人物二人の息詰まる“外交戦”を描いている。


画像「オテル・ル・ムーリス」。

こちらにはホテル同様、食通にも知られる、星付きレストランがある。

2〜3年前に内装も味も仕立てもグレードアップして、“アランデュカス”の名を付けくわえたらしいが、その「レストラン・ル・ムーリス」のランチを、はるか昔に一度だけ利用したことがある。
その時。
歴史上の名だたる人々の足跡が残っているこのホテルの、200年近くにわたる歴史の逸話を含めた栄光の“正体”にほんのわずかだが触れさせてもらって、戦慄した思い出がある。

かく、さまざまな経験をそれなりに積んで。。。

この映画の背景を含めた、簡単に壊したり焼いたり、煮て食ったり?してはいけないパリという街の持つ、「文化」ともいうべき華やかさの貴重さを、ようやく少しだけ、理解できるようになった。


映画は、1944年のドイツ占領下のパリで、実際にあった有名なハナシである。

ヒトラーが電話口で叫び続けたと言われる言葉をタイトルとした、『パリは燃えているか』のノンフィクション作品を下敷に、ホテル、ル・ムーリスの司令官室でノルドリンクとコルティッツが神経戦を繰り広げた言葉のやりとりを戯曲化した『DIPLOMATIE』の舞台の、さらに映画化した作品なのだそうだ。


画像ムーリスの豪華客室での一夜を舞台化した作品の、さらに映画化作品であるから、多分、舞台の方が設定もハナシの進め方もさらにドラマチックであったに違いない、とスクリーンを見ながら簡単に推測できたが。。。映画としては、そういう面で、いささか平板に見える感はあったものの、それなりに見ごたえある、なかなかの秀作であった。

ベートーベンの交響曲7番の旋律を背景に、映画の冒頭に登場する、傾き、崩れかけたむき出しの瓦礫のビル群を撮ったセピア色の静止画像が、“パリ焦土化作戦”がもしも実行されていたら、あの美しいパリもかくあったに違いないと暗示させて、強烈な印象を観客席に撒き散らす。


画像スクリーンに映し出されるこの街は、↓ 下に載せた、ナチス・ドイツにより壊滅的な破壊を受けた後、修復されて昔の面影を取り戻した2006年のワルシャワである。スクリーンのセピア色の“絵”は、そのワルシャワの、こちらが写真を撮った時点より62年前にあたる、崩滅直後の姿である。

1944年8月1日午後5時に開始されたワルシャワ蜂起の報復で、ワルシャワはドイツ軍により壊滅的に破壊された。そして、諸説あるが、25万人とも10数万人ともいわれるレジスタンスに加わった市民らが殺戮されている。

2006年初夏、生まれて初めてワルシャワを訪ねたが、その破壊された旧市街は、戦後60年を過ぎたというのになお、破壊前の街並みを取り戻すための工事が続けられていた。煉瓦一個、敷石の欠け具合まで復元する緻密な作業が、ワルシャワっ子たちの手で進められていたのだ。

ワルシャワよりもさらに大都会であり、人類の歴史資産の多いパリがもしも燃えていたら。。。ぞっとする思いに観客を突き落して、映画は始まった。


画像スウェーデン総領事ノルドリンク。

ホテル・ムーリス最上階のコルティッツの執務室に、ナポレオン3世が愛人に会うために権力に物言わせて造ったと言われる書棚の仕掛けで開け閉めできるドアのある秘密の通路をかいくぐって、突然入ってくる。

二人は初対面ではなかったが、司令官は驚く。
「厳重警戒のこの部屋にどうやって入ったのだ?」。
ノルドリンクが秘密の通路のことを明かす。
驚くコルティッツ。

これをはじまりに、パリの運命を決める、二人の知と情、真実と虚構をないまぜにした、相手を屈服させようとするオトコ二人の激論の戦いは始まる。。。

ナポレオン3世の愛人、といえば、帝位につく前までのスポンサーでもあったアン・ハリエット・ハワードを連想するが、そもそも、そんな秘密の通路が、有名なかの高級ホテルムーリスにある筈はなく。。。?

。。。ないでしょ? 
ル・ムーリスは世界的な名門ホテルだから、秘密の通路の存在が事実ならば、以前いくつか書いた著名ホテルの歴史的な話題、たとえばシャトー・フロントナックのように知る人は多くなり、ハイレベルのホテルとは縁遠いこちら程度でもハナシの片りんが耳に入ったり、情報活字が目に飛び込んで来たりして、これまでに見聞きしていたハズだ。。。

。。。秘密の通路についての二人の言葉のやり取りは、結果、ヒトラーの命令に背いてパリ爆破を部下たちに命令しなかったコルティッツの心のブレを象徴しているようで、多分、舞台化時に“創作”されたに違いないこの「嘘」の謀略話が、面白かった。


未だこの映画を観ていない人のために、“ネタバレ”になる、似たような筋を追った話題はもうやめるが。。。

人類とは愚かなモノだなと、今回もまた、しみじみと思った。


画像もしも、万が一、ヒトラーの命令が実行されていたならば。
爆薬、爆弾が仕掛けられたパリの建物や施設は、オペラ座、ルーヴル美術館、ノートルダム大聖堂、エッフェル塔、ブルボン宮、パリ警視庁、ドイツ占領下、接収されてドイツ空軍支部となったホテル・リッツや同クリヨンなど。パリの主要な人類遺産はほとんどが対象となっていたという。また、非戦闘員のパリ市民らもおよそ200万人が死傷したと推測されている。

パリは瀬戸際で人間の狂気から救われたが、第二次世界大戦ではワルシャワのほか、今度は連合軍がドレスデンやリューベック、ハンブルグなどを無差別爆撃。日本も、東京をはじめ神戸、横浜など全国各地が無差別爆撃され、なかでも富山は、市域の99・5%が絨毯爆撃で逃げ惑う市民多数を巻き込んで焼き尽くされた。広島、長崎は、人類史唯一の原爆被害にさえあっている。


画像非戦闘員を巻き込む無差別爆撃は、国際法上禁止行為と解され、1922年の空戦法規案でも禁止を明記している。このため、ヒトラーの命でスペイン、ゲルニカを爆撃したドイツや重慶を絨毯爆撃した日本軍部関係者たちは戦後厳しく戦犯法廷で裁かれていった。対してナガサキ、ヒロシマや東京大空襲、ハンブルグ爆撃など戦勝国の行為は、人類史の常、正義の審判で行われることはなく、「勝者の論理」で裁かれる、あるいは黙認されるだけで、公式に追及されてはいないのだけれども。。。。

やはり、人類のおろかな行為であったことに違いはない。

映画『パリよ、永遠に』で、コルティッツは「ハンブルグの報復だ」としてパリ爆破を正当化し、反論しようと試みるが。。。良心が、それを許さなかったのだろう。反論を引っ込める。


閑話休題。

今年は映画をよく観ていて、旅の途次、機内で観たそれを含めると、『パリよ。。。』でちょうど20本目だった。

およそ半世紀前、学生の本分を放り出して遊び回っていた、恥ずかしきわが青春時代並の本数である。

新幹線のせいだ。

思い立ったら思慮分別もなく飛び乗って上京し、簡単に映画館の前に立つことの出来る、新幹線が悪いのだ。
わずか半年で20本とは。。。 
厳しく自己反省しなくてはなるまい。。。





♩ ♪ ♫ ♬ ♭ ♮ ♯ ♩ ♪ ♫ ♬

         ♩ ♪ ♫ ♬ ♭ ♮ ♯ ♩ ♪ ♫ ♬


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さて。

旅の「覚え書」の続き。

ルーマニア北部、ブゴヴィナ地方とマラムレシュ地方の境界にある、ドラキュラ城ホテルを後にして。
進路、北西へおよそ190キロ。ウクライナ国境は目の前、ハンガリー国境までも残すところ60キロあまりという片田舎、ルーマニアの北端にある小さな村、サプンツァへと向かった。


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マラムレシュ地方は、フレスコ画の教会群を巡ったブゴヴィナ地方よりも一層、田舎であった。上ったり下ったりと坂道ばかりが続く田舎道の周囲は、一面の緑、緑、緑。。。林檎やサクランボの白い花が一面に広がる果樹園も、山の斜面に現れては消えていった。

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画像ルーマニアもここらあたりまで奥に入ると、平坦な土地はほとんどない。あっても、猫の額ほどの小さな盆地か入会地ばかりで、道は上ったり下ったり、うねうねと上下、左右に曲がりうねりながら続いていた。足の長さがバラバラで高いモノや低いものと一様でない手作り風の制限速度の規制標識も、30キロ以下を指示すそれがやたらに目立つ。

190キロ、と言えば、日本ならば、たとえてみれば皇居前から諏訪湖あたりまでの距離。2時間余りで楽々着いてしまう短距離ドライブコースだ。

しかし。
高速道路がなく国道も簡易舗装程度の造りの粗い片側一車線道が続くここらマラムレシュあたりでは、途中、昼食や休憩のためのコーヒータイムを挟んで、結局、6時間近くもかかってやっとたどり着いた。


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途中。

緑がいっぱいの山道を上ったり下ったりしながら、飽きるほどに次々と現れては消えていくのが教会堂。修道院の教会堂を含めて、ルーマニア正教会のそれだけでおよそ15万もの礼拝場所があり、加えて、少ないとはいえハンガリー時代からのカトリックの会堂や、ギリシャ正教会、ロシア正教会のそれまで加えるとさらに1割は増える、と言われるほどで、小さな集落が現れると必ず教会の尖塔が空を突いて建っていた。


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三分の一ほど走った時、ちょっと面白い光景に遭遇した。

前回に引用した小説「ドラキュラ」の冒頭部分で、日記を書き留めた設定の町、ビストリッツァ(Bistrița)北、20キロほどに位置する小さな街、ナサウド(Năsăud)でのことであった。

ナサウドという街は、人口1万人足らず、ほんの100年足らず昔はオーストリア=ハンガリー二重帝国、ハプスブルグ家の領地であったためウィーンのような美しい家並みが残り、グラウンドで遊ぶ小学校の生徒たちの制服もオーストリア風ないでたちで、ルーマニアらしからぬ?きれいな街であったが。。。


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この地方の祭礼行事会場へホースライディングや馬車で向かう行列を見た。

花飾りのついた帽子に、白地の服地の上に赤や朱、黄色などの刺繍や飾りできらびやかに彩られた民族衣装姿の青壮年、少年たちの馬車列が、車の行列に挟まれながら断続的に続いていて、なかなか見事であった。
最初は、結婚式の列かと見まがうほどに華やかでもあった。


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あと、お決まりの荷馬車群とコウノトリの巣は、ここらに入ると、教会堂の次にありふれた光景として目についた。

そうこうして。
やっとサプンツァ(Săpânţa)村に入った。
「やっと」という感じで。距離感以上に、こちらは遠かった。


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この村に何があるのか?

かの有名な「陽気な墓(Cimitirul Vesel =ルーマニア語、Merry Cemetery=英語)」だ。

悲しく暗いイメージの「死」=「墓地」なのに。
なぜ、どんな理由で“陽気な”との形容詞をつけて呼ばれるほどの観光名所になったのか?

ウォルトディズニーのミュージカル映画の主役である、魔法が使えるナニーのメリーポピンズや、ハワイ島ヒロの街のフラの祭典の名に転じたハワイの陽気なカラカウア王のごとくに“メリー”などと名付けられて、世界中の人々を呼び込むのか?

不思議に思って。

ぜひ、観てみたいと。。。
この国への旅を目指した、理由の一つであったのだ。


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