潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS 死して「詩」と、陽気な墓を残したサプンツァ村の人々。

<<   作成日時 : 2015/07/17 23:29   >>

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ほんの数日。関空発で遊びに行ってきた。


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その小さな旅からの帰り道、大阪の街で。

いささか旧聞だが、“大阪のおばちゃん”たちに旋風を巻き起こしたと、ン年ほど昔に耳にして、へぇ〜っと思ったスイーツを並べている売り場に、偶然、“ニアミス”した。

話題になっていたころは「へぇ〜」と思った程度で、さして食べてみたくもなかったのだが。。。


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。。。で。
遅まきながら、「これも何かの縁、そんじゃぁ、まぁ、試してみンべぇ」、と。買い求めて帰宅。

ピンク地にシルバー色で「MADAME SHINKO」と記された超派手々々なボックスの裏に書かれた「マダムブリュレのおいしい召し上がり方」の指示通りに一晩冷して凍らせ、ホンの少し前に食べてみた。

「味はどう?」 と、相棒が訊ねてきた。
「う〜〜ん。。。」と、返事に困った。

画像「召し上がり方」では、「上は『ばりっ』、下はアイスクリームのような食感」が楽しめる、と書かれているだが。。。
ただ、無茶苦茶に甘いだけ、という印象。

昔、アメリカの馬鹿でかいケーキを初めて口にした時。砂糖と蜂蜜とメープルシロップとステビアとチクロを混ぜ合わせような超極甘味に胃袋がでんぐり返しを打ったが。。。あれと似た思い。

「う〜〜ん。。。」。
甘党派を自認していたが。。。ひょっとすると、日本人の甘さに対する感性も、浪速のおばちゃんやマダムたちは欧米並みに進化? あるいは鈍化??したのか、としばし唖然としたのだった。

画像それにしても。この箱、凄いナァ。

さすが、大阪のおばちゃん風で、ピンクの蓋周囲を取り巻く箱の模様は、ヒョウ柄だぁ。
箱を開けたら、中は全面、ヒョウ柄だった。

関西の菓子、と言えば京都、神戸を連想し、大阪と聴けば豚まんかみたらし、せいぜい堂島ロールくらいしか思い浮かばない貧相なこちらの脳には、ちょっと贅沢過ぎる??味なのかな? このヒョウ柄箱のスイーツ。
味の好みはひとそれぞれ、というが、自分には、どうも、もう一つであった。残念。



♩ ♪ ♫ ♬ ♭ ♮ ♯ ♩ ♪ ♫ ♬

         ♩ ♪ ♫ ♬ ♭ ♮ ♯ ♩ ♪ ♫ ♬


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ルーマニア旅の「覚え書」を、再開。。。

今回は、「陽気な墓(Cimitirul Vesel )」のあるサプンツァ(Săpânţa)村のハナシである。


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やっとサプンツァ村に入った。
「やっと」という感じで。<たった190キロほどなのに。。。その>距離感以上に、こちらは遠かった。


と。
前回に書いた通り。

もう、この村あたりは、21世紀の現代から200〜300年は取り残された中世、ヨーロッパの、まさに最果てにやってきた。。。という感じであった。

ルーマニアの最奥部といわれるマラムレシュ地方でも、さらに北端、ウクライナは目と鼻の先の、山と丘と川幅20〜30メートル程度の小川に囲まれた小さな村が、サプンツァ村だった。

画像川の名はサプンツァ川。
2キロ弱北へ流れて、国境を流れるティサ川に合流。そのティサ川は、時計にたとえれば1時くらいの位置でサプンツァ川を飲み込んだ後、西へ、ハンガリーに入り、さらに南へ向きを変えながら反時計回りにおよそ500キロほど流れ下り、やがて、8時くらいの位置で、つまり、セルビアのベオグラード近くでドナウに合流する。

「陽気な墓」が登場する前は、この川、つまり恵まれた水の環境と、数百年以上も昔からほぼ手つかずで残ってきたという、村を取り巻く深い森だけが、この村の財産であったらしい。

「この村から数キロ離れた場所に、万病に効くという有名な温泉があり、近くにはサプンツァの魚として知られる、マスやチョウザメの養殖場もある。そして森は、サプンツァならではとして知られるレリーフを施した家具や家、さらに独特の美しさで知られる彫刻彫りの門や塀、家造りをこの村にもたらし、村の貴重な伝統芸術として根付いている」と、「陽気な墓」の前で迎えてくれた村人やこの施設の案内人は、この墓地だけが村の“目玉”ではない、と胸を張って語った。



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画像「陽気な墓」は、1908年、日本式に言えば明治41年生まれで、さかのぼる38年前に69歳で亡くなった村の木造り細工職人←スタン・イオン・パトラシュが、元々、村の伝統技術として伝え継がれていた、こちらの国の言葉で「トロイツァ(木造りの十字架)」造りをさらに発展させて、レリーフ彫の絵柄を加えて墓碑に仕立てていったのが始まりだという。

時あたかも、第二次世界大戦直前。独ソ不可侵条約に乗ってナチス・ドイツの息のかかったハンガリーが再びトランシルヴァニアに侵攻し、ソ連軍がモルドヴァ侵略を進める直前の動乱期であった。


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トロイツァは、墓苑の入り口の門柱にも前後に各一枚づつ貼りつけられていた。

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門を入ると目の前に教会堂。壁面のお色直し真っ最中であった。その工事の足場の向こうの煉瓦建ての会堂の壁に、色鮮やかなモザイク画が貼られていた。


その世界大戦の嵐の前。波乱の時期のバルカン半島に登場した「陽気な墓」。

第二次世界大戦でこの村でも多くの死者が出て、彫刻を施した墓碑が、のどかであったこの村の普段の生活に増して必要とされていった時代を迎えることになる。

そういう意味では、言葉は悪いがいいタイミングで、世界的に稀有な、ちょっと珍しい墓所はしっかりとこの土地に根付いていったのだろうと思う。

往時の、つまり1940年代の墓碑も、長年の風雨にさらされて色こそ抜け落ちていたものの、浮彫模様の年号を添えて、70年ほど経過した現代でもなお、しっかりとまだ残っていた。


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墓碑には、故人の生前の職業や家族構成、仕事ぶりや趣味などを示すレリーフ絵の下に、碑文が添えられていた。

その碑文は、ルーマニア語の辞書を片手に読み進むと、韻を含んだ詩のように見えるものもあった。同時に、ただ単語を並べただけのメモのようなものもあって、統一したパターンはないように見えた。

うち、この韻を含んだ詩のように流れる文は、ルーマニア人ならば子供でも知っているという「バラーダ」に根差しているのだそうだ。

バラーダ、って何か?
ルーマニア民族伝統の、口承叙事詩だそうだ。旋律に乗った物語の語り部だそうな。
かの吟遊詩人、であり、日本で言えば、今では消えた、三味線を手に村々を流し歩いた瞽女の語るハナシのようなものか、義太夫のようなもの、なのだろうか。


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たとえば。
同じ文面をいくつか見つけたのが、天使のように背に羽をつけた絵のある↓これである。


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『私の命は 
非常に短かったよ 
もっと長く生きることは
許されなかった。
両親を手伝うことは出来なかった。
死ななくちゃならなくて
妹と別れた。
妹よ 生きている間は、
私の墓所をきれいにしておくれ
花を飾っておくれ
そして私を忘れないで
一緒にいた時、嬉しかった
けれど、今生き残ったのは、あなたたちだけ」。


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もうひとつ。
絵柄はそれぞれ違うのだが、↑このような、話し合っていたり一人思案顔かロダンの考える人風な図柄に添えられた同じ文面のそれもいくつか見た。

『この重い十字架の下に
貧しい嘘つき人生を送った
私の義母が横たわる
彼女は三日以上、あるいはもっと生きていた
私はここで、そして彼女はこれを読んで しまって
どうぞ、彼女が再び起き上がらないようにしてください。
もし彼女が家に帰ってきたら
彼女は私の頭に噛みつきます。
だから私は次のごとく行動します
彼女は決して帰ってこないように。
わが愛する義理の母は
ここに留まり続けます』。


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羊飼であった人。


幼少年期あるいは少女時代に早くも生を絶たれた、背に羽根を持つ少年少女の墓碑を建てたのは、本人であるハズはない。間違いなく、父親か母親だ。

また、義母の墓を作ったのは。。。いや、作ったのはひょっとすると息子であったかもしれないが、その墓前で花を手向けつづけたのは、きっと義理の関係の嫁であったはずである。

残された、この墓碑のバラーダに摸して刻まれた文を読む遺族たちの心を勝手に想像しながら、この墓碑をながめると。。。哀しみとともに、曰く言い難い、現世の人と人との関わり合いに対する皮肉というか風刺というか、時には死をも笑い飛ばすユーモア精神が見えてきて、おもしろかった。


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牛の世話をよくしていたおばあさん。
碑文に曰く。「金持ちになりたいという人よ。毎日朝早く起きて、子牛を飼育したら一番いい。私はそういう風にしたよ」。



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碑文に曰く。「私はトラクターが好きであった。頑張って働いたが、33歳という若さで死んでしまった」。

「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という。

名を遺すほどの偉人でなくても。こうして、死して、その名と本人の生きざま、というか、人となりを残せる墓。
日本のように「○×家代々の墓」は論外として。一人一人の墓のある欧米社会の墓地の中でも、これほど強烈に生前のころの人となりを連想させる墓は、やっぱり珍しくおもしろかった。


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碑文に曰く「最初の世界大戦 の初めにガリシアで射殺され、戻ってこない私の甥グレゴリー。私はあなたのために私の体を埋葬し、あなたのもとへ、そして敵と対する」。

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この墓碑は羊飼いの墓で、彼はハンガリー人とハンガリー語を憎み、生前から物語を創作していた。その物語を碑文に。「ハンガリー人が羊飼いの私を殺した。呪われたハンガリー人に、私は彼を殺して頭を切り離してやった」。


葬式とか墓とかは、死人のためのモノではない。残された家族のためのもの、と誰かが書いた文章を読んだことがある。その通りなのだろうなぁ。と思う。

もしも、死んだ本人のためのモノ、なのならば。
自分は墓などいらないなぁ。

数年前のヒット曲の歌詞のとおり。

♪“お墓の前で 
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に、千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています ”♪

日本の、わがふるさとのあのあたりか、それとも、ヨーロッパはイタリアの大地か??
吹き渡っていたい。
風になりたいなぁ〜。

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墓地の周囲に、村特産のチェルガ(手編みの毛布)や絨毯、編み物などを売る土産物店や小さなレストラン、ペンション、ベッド・アンド・ブレックファーストなどが並んでいた。

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