潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

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zoom RSS 再びトランシルヴァニア地方。クルージュ・ナポカへ。

<<   作成日時 : 2015/10/04 21:26   >>

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ルーマニア随一の文化学術都市と言われるクルージュ・ナポカの旧市街の統一広場で、全身“総刺青”の車を発見した。

「こ、これは何だぁ〜?」???


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と、その答えは後で書き留めるにして。
この異色の車にお目にかかったまでの足取りを、「覚え書」。。。


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↑ マラムレシュ県の県都バイア・マーレの新市街。ホテルやショッピング街はこの辺りに集中していた。東へ1キロほど行くと旧市街だが、旧市街は訪ねなかった。
↓ サザール川の北に広がる公園の中の民俗博物館。


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画像マラムレシュ県の県庁所在地、バイア・マーレで、マラムレシュ地方での最後の夜を明かした後。
観光らしい観光はほとんどせずに、昼少し前に、トランシルヴァニア地方の中心へと再びUターンした。

向かったのは、ルーマニア随一の文化、教育、学術都市、クルージュ・ナポカ。

そのクルージュ・ナポカと、ルーマニア北部でウクライナ、ハンガリーの3カ国が接するルーマニア最北の街ハレメウとを結ぶ国道DN1Cにバイア・マーレの街外れで乗っておよそ160キロ。

画像昼食時間込みで3時間弱もかかってようやく、トランシルヴァニア地方のクルージュ・ナポカに到着した。

ブラショフ以来、モルドヴァ、ブゴヴィナ、マラムレシュとルーマニア北部辺境を巡ったのも、この日で終わりであった。


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↑ ↓ 紀元前2世紀にローマ帝国植民市として生まれた長い歴史を持つクルージュ・ナポカの中心、統一広場。

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クルージュ・ナポカは、第一次世界大戦まではハンガリー領であった土地だ。
住民数も19世紀初頭でハンガリー人が8割、ルーマニア人は7分の1ほど。

その影響で、ルーマニア領に転じてハンガリーの人々が大勢去って行って以来90年を超える現在でも、まだ6人に1人がハンガリー語を使う人々が住んでいるそうで、ルーマニア語は当然、マジャール語もわからないこちら程度には一向に気付かなかったのだが、街中でハンガリーの言葉を聞くのはさして珍しいことではない、むしろよく聞く、そんな街なのだそうである。


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つまり、この街の人々はバイリンガルが多く、結果、ルーマニア語に混じって、マジャール語のほか英語やイタリア語の看板やポスターも結構多く、英語やイタリア語を話せる人も目立って多かった。

ちなみに、ルーマニアで最初の大学が開校したのは、1872年、日本の年号で言えば明治5年、この街であったそうな。ルーマニア人には開かれていない、ハンガリー人とドイツ人を対象としたマジャール語専用の教育であったけれども。。。

日本の官立大学、東京帝大の開校よりも5年早い。
いや。
東大は17世紀に江戸幕府による教育施設として創設されているから、その前身の歴史をひもとけば歴史は比べ物にならないほど長いのだけれども。。。

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というわけで。
現在でも、この街はルーマニア随一の文化・学術・教育都市なのだそうな。

最初の“総刺青”、“くりからもんもん”か、はたまたフレスコ画を身にまとったような自動車。

だからだろうか? つまり、文化学術都市だからか??
車のウインドーに描かれた文字はルーマニア語ではなく、英文であった。

で。
一瞬の「あっと驚くためごろ〜! なんだこの超派手なペイントの自動車は!!」との驚きのあと。
こうも派手に車を目立たせたその目的や狙いは簡単に理解できた。

そうそう。
アニメチックなペインティングによるカーデコレーションの目的は、この街で開かれるコンサートのアピールであったのだ。


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冒頭に書いてある固有名詞については無知で、通りすがりの若者グループに尋ねみた。
ルーマニアで先端を走るロックのデュオとフォーク・グループなのだと教えてくれた。

ことのついでに、初めて知った、この車の所有者グループが主張する「アンチ・バレンタインズ・デー」も、「アンチ・ヤニス・デー」も、なんとなく、意味が解ってきたのであった。

日本では「バレンタインズデー」は一般化しているが、洗礼者ヨハネ祭やラトビアの聖ヤニの日を発端とする旧東欧圏のこの種の行事はほとんど知られていない。
北欧の夏至祭へ結ぶ、男女の縁結びのような行事なのだ。

その男女の愛の行事に、なぜ、どうして反対なのか? 
まだ、もう一つふに落ちず、「??」の部分はあるのだが。。。
愛を告げる、あるいは成就する行事への反対は、風刺? それとも硬派としてのオトコの主張?? であったのだろうか。


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さすが、文化都市。街中で、オペラやコンサートの大きな看板や案内板、ポスターが数多く掲示されていた。

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と。
いろいろとつまらぬことを書き留めているけれども。

馬車や馬が主要な農耕作業や交通手段の役割を現代でもなお果たしているブゴヴィナ地方とマラムレシュ地方から現代へ久々?に戻った、今様“浦島太郎”のごとくの心理事態であったためか?
車の群れやコンサートの宣伝ポスターや立て看板など、眺めていてとても面白かった。

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画像旧市街の家並みは、ハンガリー風→右写真はハンガリー、ブタペストのドナウ川沿いの遊歩道から撮ったブダペストの街並み=というか、ウィーン風というか。。。さすが、オーストリア・ハンガリー二重帝国時代の歴史を色濃く感じさせる造りが目立った。


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クルージュ・ナポカという街の名。

街の中心を流れるソメシュマイク川を挟んで、昔、北にナポカの街、南にクルージュの街があったのだが、市域が拡大していくに従って互いに市街地は連なり、一つの街となって行って、双方の街の名をそのまま並べて現在の自治体名になったのだそうだ。

ブダとペシュトが合わさって一つの街のとなったハンガリーの首都ブダペストと同じ。

ルーマニアでザクセン人と呼ぶ、ハンガリー人と同じくトランシルヴァニア地方に移民して長い歴史を持っていたドイツ、ザクセン地方出身者などのふるさと、モーゼル川沿いの著名ワイン産地、ベルンカステル・クースの街とも同じ方式の名前であった。

その街の名の名付け方式や街の歴史のとおり。

街並は、ハンガリーの街と、さらにはハプスブルグ家のあのオーストリア=ハンガリー二重帝国時代を髣髴させるウィーン風な豪奢な造りで、なかなかの美しさであった。


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画像中世のヨーロッパのような、ルーマニア北部辺境の村を巡ってきたせいか、クルージュ・ナポカに入って、久々に現代の都会に戻ってきたような気持ちになった。その一つが、車の群れ。日本車にも久しぶりにお目にかかれたし、タクシーにも出会った。こちらのタクシーは、最上段にあげた“総刺青”の車ほどではないにしても、さまざまに宣伝用のイラストや文字で車体を装っていて面白かった。


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