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zoom RSS シベニク旧市街に、ベニスの血引く“偉大”なる王様像。

<<   作成日時 : 2016/03/10 22:50   >>

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古い歴史を持つシベニク旧市街は、新市街のクロアチア鉄道駅やバスターミナルの西北に位置する。


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ツアーに参加してこの街を訪ねると。
その鉄道駅やバスターミナルから向かう、旧市街南端の入り口近くの、シベニク生まれのクロアチアの有名な植物学者の名を冠した小さな公園前の駐車場でバスを降ろされた。

その公園の海側近くの聖フランチェスコ教会前に、20世紀末に建てられたという、前衛的な造形の石像が一体。
クロアチアの女流彫刻家、マリア・ヴェヴィッツさんが造った、シベニクの人々が誇りとする、“生粋”のクロアチア王国国王、ペタル・クレシミール4世(Petar Krešimir IV.)像であった。


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この王。
クロアチアの人々の間では唯一、ヴェルキ・フルヴァスキ・クラィリ(Veliki hrvatski kralj)、日本語に訳して「偉大なクロアチア国王、あるいはクロアチア大王」と呼ばれ、クロアチア人にとっての、歴史上の誇りとする人物であるのだそうな。

なぜか?

クロアチア人たちが南スラヴからアドリア海沿いに進出した10世紀初頭。最初の王、トミスラフ王(Kralj Tomislav)の元に最初の王国を築くことに成功したが、その後、ビザンツ帝国やブルガリア王国、隣接のハンガリー王国、海洋国家として成長していくヴェネツィア共和国、台頭するオスマン朝軍との競合と、加えて激しい国内の内紛で一代で崩壊。領土は百数十年にわたって蚕食されて国内は大きく乱れた。

そして11世紀。巧みな軍略と政略で百有余年ぶりにクロアチアを再興したのが、この「偉大な」国王であったのだそうだ。


↓ 聖フランチェスコ教会。
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「ふ〜〜ん、なるほど、なるほど」と感嘆。
ツアーに参加すると恩恵?にあずかれる、地元ガイド氏の歴史談話である。

クロアチアの他の街のいくつかをこれまで何回か訪ねている。
が、この人の名前も、そんな歴史もこれまで聞いたことはなく、この街で初めて知った。

かてて加えて。
自分のような、その文化や観光、歴史などすべてを大好きなヴェネツィア・ファンにとって、かつて、ヴェネツィア共和国領であったこれらアドリア海沿いの街に興味津々の人間にとって、さらに面白いハナシが一つあった。

それは。。。


↓ およそ1,000年前の歴史的人物なのに、20世紀末に設けられた造形のためか、随分モダンな王様だ。なかなかのハンサムである。
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この人。

祖父は、ヴェネツィア共和国のかの有名な第26代ドージェ=総督、ピエトロ・オルセオロ2世であったのだ。

そうそう。
ヴェネツィア共和国が崩壊する1797年までの間、通算120代も続いたドージェのうちの、ヴェネツィア共和国に繁栄をもたらした五指に入る著名な指導者、としてヴェネツィアの観光ガイド本の挙げるトップバッターが、この人の祖父であったのだ。


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↑ シベニク国立劇場。1840年に完成した公爵の邸宅を1870年に劇場に変え、さらに1945年に改装した建物だそうだ。地元の芸術家によって飾られたステージ上の装飾が美しいという。残念ながら、催しが開催中で内部には入れなかった。

画像以下、画像の何枚かは、シベニク旧市街の初代クロアチア王の名が付いたメインストリート、トミスラフ王通りの風景。メインストリートと言っても、ヴェネツィアの街同様、道筋は細く狭い。



ドージェ、ピエトロ・オルセオロ2世。

10世紀末から11世紀に活躍し、ネレトヴァ川河口域を拠点とする海賊一族やダルマチア海岸の数多い島影を根城として沖合を行くヴェネツィアの交易船を襲撃して財宝を奪っていく海賊たちを一掃し、アドリア海の安全な航海を成し遂げると同時に、同じように海賊に悩み、ヴェネツィアに保護を求めてきて、代わりに恭順を誓った沿岸の各自治都市と連携して取りこんでいった、ヴェネツィア発展の礎を築いた著名な人物。


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作家塩野七生は一大歴史小説『海の都の物語・ヴェネツィア共和国の一千年』の中で、その経過も書いている。一部を抜粋すると、「第2話〜海へ!」の中で、かく、書き表わしている。

『西暦九九八年の五月、キリスト昇天祭の日を期して、三七歳になっていた元首(ドージェ)ピエトロ・オルセオロ二世は、多数の軍船を率いてヴェネツィアの港を出帆した。行き先はザーラ(注=クロアチア語でザダル)である。その地には、ヴェネツィア共和国の保護を求めてきた、二十以上のアドリア海東岸の都市の代表が』『待ち受けていた』。

『まず北からポーラ(注=同、プーラ)、ザーラ、セベニーコ(注=同、シベニク)、スパラート(注=同、スプリット)の街、レジーナ(注=同、フヴァル)、クルツォラ(注=同、コルチュラ)の島、ラグーザ(注=同、ドブロヴニク)、カッタロ(注=同、モンテネグロのコトル)、スクータリ(注=同、アルバニアのスクータリ地域ドュルチーニョ、現在のウルチーニ)そしてアドリア海の出口ヴァローナ(注=同、アルバニアのヴァローナ)と、ガレー船の日中の航行距離に一致した地点にある街に堅固な要塞が築かれる』。



↓ シベニクにももちろん、ヴェネツィア要塞はあった。丘の上に周囲360度を眺め下ろせる聖ミカエル要塞だ。
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一方で、ヴェネツィアでは。

昔から、ぜひとも一度観てみたいと憧れているのだが。。。

カルナヴァーレに次ぐヴェネツィアの賑やかで華麗な祝典、「センサの祭り」を生み出した、伝説上の人でもある。

「センサの祭り」。

復活祭の40日後、つまり、998年にピエトロ・オルセオロ2世がヴェネツィアを旅立った同じ日。
この日を記念して、共和国時代のドージェに代わって現代ではヴェネツィア市長が、このドージェの役で御座船に乗って水上パレードの先頭に立ち、リド島のサン・ニコロ教会の沖合まで市民たちの乗る無数の船の行進を率いて行って、教会沖合の海中に指輪を投げ入れ、「海よ、我は汝と結婚する」と宣べる、「海との結婚」の儀式。

ピエトロ・オルセオロ2世は、この祝典の生みの親でもある。
つまり、海洋国家発展に貢献したとされる5指に入る偉大なドージェのうちの一人、ピエトロ・オルセオロ2世を賛美する、記念の行事なのであった。


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旧市街の入り口に立つ王の石像。
モデルの彼は、そのピエトロ・オルセオロ2世の娘、ヨセラ(ヒせラ)・オルセオロこそ、その生母であったのだ。
そして、この偉大な国王自身、ヴェネツィア生まれで、「幼少期はあのスキアヴォーニ河岸で遊んでいたに違いない」のだそうだ。

この街を訪ねて。
また一つ、ダルマチア海岸とヴェネツィアの因縁浅からぬハナシを一つ、知ったのだった。


↓ 通りの中心に小さな広場が一つ。広場の一面の壁に藤の花が咲き誇っていた。そして、広場の中央にヴェネツィア様式の井戸が一本、残っていた。
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シベニク旧市街は、予想以上に狭く、小さかった。道も細く、ヴェネツィアと同じく迷路状に続いていた。

14世紀から16世紀にかけて造られたというゲートもいくつか残る、クルカ川河口近くの左岸に、バードアイで眺めると、南東から北西へ向かって伸びる全長およそ500メートル、全幅300メートルほどの卵形の小さなエリア。

現代社会ならば、野球場とサッカー場を各一つ造って、周囲にわずかの駐車場を置けばもう、目いっぱいになってしまうスポーツパーク程度、ほどの面積しかなし。

端から端まで、長辺をゆっくりと歩くだけで、15分ほどで巡り終えてしまった。

画像アドリア海東岸に並ぶ、かつてヴェネツィア共和国に支配されていた街々のうち、規模はほぼ最小クラスではないだろうか。

コルフ旧市街スプリット旧市街はもとより、コペルコトルよりも、さらに、イストリア半島の先端に並ぶ小さな街として知られるポレチュやロヴィニ、プーラなどよりも小さな街だった。


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地元のガイド氏によれば、街の歴史は古いらしい。
冒頭の石像の“大王”時代からさらに、さかのぼれば歴史はローマ帝国時代にまで達し、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの残した宮殿がそのまま街の礎となったスプリットよりも街の始まりは早いのだそうな。

知らなかったのだが。。。
アドリア海沿岸の街々はほぼ、ローマ帝国の人々、あるいはギリシャ人、はたまたイリュイア人が築いた街々であると以前に聞いて、単純に信じていたが。。。この街はダルマチアでほぼ唯一、最初からクロアチア人によって築かれた街である。とのことだった。


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小さな旧市街は、最北端に高さおよそ20メートルほどの小さな丘を持ち、そちらへ向かって斜面が続く大地で、結果、尾根筋にあたる部分だけはほぼ平だが、残る港付近や低地の新市街からは、階段道や坂道が続いていて、あたかもイタリアの山上の村のような光景にも見えた。


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画像港に近い位置に、←畳4枚分ほどの大きな地図板が掲げてあった。
その地図版で、ピンク色に塗られているのが、旧市街の見どころ案内ポイント。
番号を打ったポイントの説明は、周囲にクロアチア語と英語で書かれていた。

何が見どころだとガイドされていたのか?
教会や修道院と、ヴェネツィアならばパラッツォ(Palazzo)、英語ではPalece、宮殿と呼ぶ、クロアチア語でパラッツァ(palača)。

画像もう一つ、ヴェネツィアではパラッツォよりも一段低い邸宅? いや、家、程度だろうか? そのくらいの位置づけの格のクーチャ(kuća)と劇場や議場など、14世紀〜17世紀の建物群。

数え上げたら、教会や修道院はあわせて17カ所、パラッツァも同じ17、クーチャは15カ所、掲げられていた。

もちろん、全部は巡りきれなかった。


画像↓ 海際に降り切った、少し広めの水際の道がフラニョ・トゥジュマン通り。シベニクの旧港だ。ヴェネツィアの旧港で、ダルマチア地方やイストリア地方から移り住んできた、ヴェネツイアで言うスキアヴォーニの人々が多く住んだことから「スキアヴォーニの河岸」と呼ばれる、サン・マルコ広場から東へ伸びるラグーナ沿いの道、リヴァ・デリ・スキアヴォーニと似て見えた。



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それらの建物群で特徴的だったのは、石灰岩。。。いや、日本では大理石も石灰岩の一種だと数えられるが、どちらかというとその高価な大理石造りの建物群はほとんど見られず、英語で言う、いわゆるライムストーン、石灰岩のそれだった。

とはいえ、その石灰岩の純度は高く、純白とまではいえないが、ほとんど混じりっ気のない、白色に近い石灰岩で出来上がっていた。クロアチアには石灰岩台地が多く、ブラチ島など名高い石切り場がダルマチア海岸に点在しているからだろう。きっと。

ヴェネツィアでも、これほどのライムストーン造りのパラッツォは少ない。
代わりに、豪邸では大理石造り、あるいは大理石を表面に貼って仕上げているケースも結構ある。しかし、大理石を張っていないパラッツォ群では、あの海の上の1,000年都市では、ほぼ漆喰仕上げが普通ではないか。

↓ 海際の道沿いに、ヴェネツィア時代の邸宅を改装した市立博物館があった。
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