潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書

アクセスカウンタ

zoom RSS トロギール。ここにもあった“小さなベニス”。

<<   作成日時 : 2016/03/22 13:07   >>

ナイス ブログ気持玉 11 / トラックバック 0 / コメント 0

トロギール旧市街にやってきたのは、初めてであった。


画像


画像恋心と同じで。「この街は、あの街とそっくり」などと感じたり、思ったり、話したりすることは、所詮、手前勝手な思い入れと錯覚、錯視、あるいは小賢しい思い上がりに過ぎないことは重々承知で、こういうことは、あまり書き残したくはないのだが。。。

↑ トロギールはあのヴェネツィア→ の街並みに実によく似て見えた。
海の上での街だから、建築材としては煉瓦が最も安易に安く入手できるヴェネツィアと。
街の周囲に石灰岩層が溢れ返っているトロギールとの、建築素材入手の安易さの地理的環境を差し引いて眺めると。
細い路地は、双子の兄弟のように似て見える場所が多かった。



そして。
街のインフォメーションでもらった旧市街の観光パンフレットの英文版では「リトル・ヴェニス」とか「アドリア海のヴェニス」と銘打って宣伝、これ務めていたが、なるほど、なるほどと納得する。


画像陸地側からの街への入り口、← 北門をくぐり抜けると、なぜか、縦のアングルでカメラを構えてしまうことが多くなった。ヴェネツィアの街中を歩いていて、いつの間にかカメラを立てている写真の録り方と同じ。細い路地は、横は壁ばかりで、被写体は細く縦長でしか見つからないからだ。




画像確かに。
地球上では、「北のベニス」とか「東洋のベニス」とか、あるいは「リトル・ベニス」とかと、アドリア海最奥部のラグーナの中に浮かぶあの“本場”に街のイメージが似ていたり、運河が巡っている共通点があるなどでこう呼ばれる街筋や場所は多い。

たとえば、アムステルダムやアミアン、ブルージュ、コペンハーゲン、サンクトペテルブルグなどの「北のベニス」をはじめ、蘇州や大阪、烏鎮、バンコク、ダッカなどの「東洋のベニス」。さらには「ポルトガルのベニス」のアベイロ、「アメリカのベニス」のフォートローダデール、「モラヴィアのベニス」のテルチ、「南仏のベニス」のマルティーグなどなど。

画像そのいくつかは自分も訪ねたことはあるが。。。
はっきり言って、どの街も似ていると思ったことはあまりない。
「運河があるからそう言われるのだな」とか、「街中に水の流れるスペースが多めだからそうたとえられるのだな」と、その都度、納得できる理由はあったけれども。

しかし。
「リトル・ベニス」と言われるトロギールを訪ねて。
人生初めて、「なるほど、ホンモノのヴェネツィアそっくりの場所もある」と思う街並に出会った。



画像


画像



この街の歴史をさかのぼれば。
それも当然と言えば当然なのかもしれない。
ヴェネツィアとこの街とは、時には敵対したこともあったものの、通算5世紀以上もの、支配者対非支配者の構図での長いつながりを持つ。

片や海賊退治と以降の海賊からの守護を、こなた、アドリア海の航行ルートの安全確保と水、食料などの供給基地確保などと、ダルマチア海岸の各自治都市とヴェネツィア共和国の相互扶助、相互補完利害が合致したのだろう。前回に書いたドージェ・ピエトロ・オルセオロ2世時代の11世紀初頭に統治権をヴェネツィア共和国が確保したおよそ100余年と。

プラス。。。


画像


画像



ヴェネウィア共和国はオスマン軍と対立して各方面で力をそがれ、さらには海洋権益を巡ってジェノヴァ軍との戦闘で疲弊し、ペストで人口の3割以上を失うなどの間、ダルマチアは再び海賊が跋扈する危険海域に逆走して、一方ではオスマン朝の軋轢も強まって行く中、実質、はるかかなたに住んでいてこの地域の守護や統治などもまったく行っていない、この地域の名目上だけの支配者に成り下がっていた、かつてのハンガリー・クロアチア王国の後継であり、ハンガリー王でアンジュ朝の末裔であるアンジュ=シチリア家最後の男系男子であったラディスラオ1世・ナポリ王が、ダルマチア海岸一帯を15世紀初頭、わずか10万ドュカートでヴェネツィアに売却。

以降、ヴェネツィア共和国が崩壊した18世紀末までのおよそ400年間にわたり。。。

つまり、通算で500年を越えて、この街は実質ヴェネツィア共和国領であったのだから、似ていてもおかしくはないのだが。。。


画像


画像


画像


画像



トロギールとほぼ似たような歴史を共通して持つ、今回の旅日記で前回に書いたシベニクはもちろん、これまでに訪ねたことがあり、この旅でもまた、この後再訪するスプリットやドブロヴニク、コトル、ポレチュなどはそれほどでもないのに、トロギールは格別、ヴェネツィアの街並みに似て見えた。

こうやって下手な駄文を書き連ねるよりも、写真をまとめて載せた方が断然、それは分かり良い。

ということで。今回は、駄文はこちらで終わりとする。


画像


画像



最後に。
ダルマチアをヴェネツィアが買った10万ドュカートとは、現代ではおよそいくらくらいに相当するのだろうか?
気になって、昔、いろいろと文献で調べて計算したことがる。

デュカートという単位は、シェークスピアの『ヴェニスの商人』で青年貿易商アントーニオに3,000ドュカートを貸したユダヤ人高利貸しのシャイロックの物語を筆頭に、ヨーロッパの中世を舞台とした数々の小説に登場する。
この3,000デュカートも、わが幼き頃、子供向けに編集された児童文学書で読んで、日本のお金でいったいいくらくらいになるのか、すごく気になったものだ。


画像


画像


画像


画像




塩野七生の小説『海の都の物語〜ヴェネツィア共和国の一千年』の第四話「『ヴェニスの商人』によると、1ドュカート金貨の重さは3・56グラム、24金、純度は0.997であったという。とすると、骨とう品としての価値は考えず、地金分だけで計算して、現代の金取引価格では17,000円ほどになるのであろうか。

しかし、往時の物価で考えると、およそ、その地金価格の10倍ほどになるらしい。つまり、1ドュカートは17万円ほど。小説「海の都の。。。」でも、塩野さんは家賃を抜きにして、一年間の生活費は当時、15〜20ドューカート程度であったとの趣旨で、調査結果をまとめておられる。

ほかにもさまざまに調べた結果。
10万ドュカートとはおよそ170〜180億円程度であったのではなかろうか。


画像


画像


画像




アメリカがアラスカをロシアから買った明治初期。
その買い取り額は720万ドルであったという。

明治初期の固定為替相場は1ドル=1円。当時の日本での役人の月収や蕎麦の値段、米一斗の価格等を調べてみると、いささか荒っぽいが、当時の物価の平均値は現代の10万分の1ほどのようだ。
とすると、当時の1円は現代の10万円。結果、アラスカの買い取り額は7200億円となる。

『。。。億円』などという単位は、我ら庶民から見ると想像を絶する大金ではあるが。。。
日本の自治体の年間当初予算案でみると170億円は、名前を挙げてはいささか問題なもので挙げはしないが、人口3万人からせいぜい7万人程度の規模の、あまたある地方の小都市の一年間の予算ほどにしかあたらない。

上は資産5万リーレ・ディ・グロッソ=1リーレ・ディ・グロッソは24ドュカートにあたるので計120万ドュカート=(現在の貨幣価値に換算して2040億円)から、下は300リーレ・ディ・グロッソ(同12億円)以上の、国民のわずか1%強にあたる貴族と市民層を8ランクにクラス分けして、その層だけから、資産クラスに応じて税金を取った.。。。

つまり、国民の99%は無税ながら。
あれほどの豪華な都を造り上げた、今では考えられないほどに豊かな財政規模を誇った当時のヴェネツィア共和国及び市民らにとっては。。。

やっぱり、10万ドュカートは、どう考えても、べらぼうに安い。

当時のヴェネツィアは、いい買い物をしたのではなかったろうか?


画像

城壁に囲まれた旧市街から南門を経てアドリア海側に出ると、向こうにもう一つ、チオヴォ島が見え、渡る橋もかかっていた。

画像


画像


画像


画像


画像


画像









酒井健吉『ベニス』油絵・油彩画 F4(4号)
内田画廊
■ベニス  ヴェネツィアの大動脈である大運河に並ぶゴンドラが  美しい一枚です。  川の両岸には歴史

楽天市場 by 酒井健吉『ベニス』油絵・油彩画 F4(4号) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 11
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
面白い 面白い 面白い
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文




会社設立 大阪市
   
アクセスカウンター
出会いライブチャット出会いモバコイメル友

トロギール。ここにもあった“小さなベニス”。 潮風の中で〜クルーズと街歩き・覚え書/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる