アレシフェの魚港で、少女たちが見せてくれた魚ショー。
“遠足”のバスは、ランサローテ島、アレシフェのクルーズポート、「クイーンヴィクトリア」の停泊する埠頭に戻ってきた。
と。。。
バスの窓から。。。
なんとまぁ、絵になるご夫妻。

歳のころなら、いわゆる“熟年”世代。
70代後半、くらいだろうか。
頭には、ランサローテ島のお土産十指に入るとか、と何かに書いてあったストローハット、麦藁帽がお揃いで。
色違いで、麻のシャツもペアだ。
黒いベルトも揃いで、下はかたや黄色、こなた白で、またお揃いの綿のパンツ。靴は対照的に白と黒だ。
「お似合いね。あの方たち、麦藁帽をお揃いでお買いになったのね♪」と相棒。ちと、羨望の眼差し。。。
ゲートを通過して、「Q.V」のギャングウェイ近くにバスが停まったら、帰船したお仲間の乗客たちの大行列が続いていた。バスの窓側に座る相棒が、「船に乗るまで少し時間がかかりそう。そして、まだ二時間近くあるわョね♪」とささやく。確かに、All Aboardの午後5時半まではまだ2時間以上ある。
以心伝心。うっしっし。
バスを降りると、長い行列をしり目に、再び出口のゲートへ向かって歩き始めた。
あの素敵なご夫妻の真似をして、ストローハットをお揃いで買ってこようと言う彼女の“魂胆”がしっかりと伝わってきて、アレシフェの旧市街へと、今帰ってきた道をすたこら、今度は自分の足で歩き始め、マリーナの案内碑前を抜けて街へと向かった。。。
と。
こんな調子でアレシフェの旧市街へ入ったのだが。。。
実に阿呆馬鹿夫婦。地金丸出しで、この日は、2015年11月21日、土曜日であることをすっかり忘却の彼方、忘れ果てていたのであった。
歩いて15分ほど、旧市街へ入って、おのれらの失態に初めて気づくことになった。
初めは、土曜日だということを忘れていた。で。
アレシフェ随一のショッピング街へ入ったら、どの店もシャッターは降りていて、通りも人の流れはほとんどなし。
初めは、この島独自のローカル祝日かな?と思ったのだ。で、ベンチに座って話に興じていたオヤジさん世代に訊ねたら。。。
オヤジ連中~「どちらからやってきたの?」
こちら~「日本から」。
オヤジ連中~「今日は、世界的に土曜日だぜ! 日本を除くと」と大笑い。。。
「そうであったのかぁ
けれど、時差とあわせて文化的にも進んでいるニッポンは、もう30分ほど前からしっかり日曜日だョ。参ったかぁ~」と、これは心の中で密かに呟いて。。。負け惜しみをひと言。。。スペイン本土よりもさらに一層、シェスタの習慣が、近代化の波に飲み込まれることなく根強く残っているのが、スペインの田舎と、はるか遠く離れた離島だ。観光客慣れしたバルセロナやコスタ・デル・ソルの街などと違って、土曜も午後2時を過ぎればしっかり、とっぷりと繁華街は休暇体制に入っていることを完全に忘れ去っていた。
で。
結論は、名物のストローハットは買えなかったのだ。残念。
アレシフェ旧市街の昔の表玄関、旧港、マリーナ・エリア。ナツメヤシをはじめパーム・ツリーの高木が端正に並ぶ。
旧港と大西洋の間に衝撃帯の内海を構築して、港を守った海の城壁と連絡海路の間にかかるラスボラス橋。
スペイン本土とアメリカ大陸の中継地点であった交易路を守ったサン・ガブリエル要塞。現在はアレシフェ歴史博物館となっている。
旧港間近に建つサン・ヒネス教会。
ツーリストインフォメーション前に、ランサローテ島の観光名所をアピールする大きなガイド板が並んでいた。
麦藁帽の土産は買えなかった。
が。
それに代わって、一風の涼風に吹かれたような愉快で愉しいひと時にアレシフェの漁港の街。。。ミコノス島のリトル・ヴェニスのような。。。
いや、それ以上にかわいく美しいウォーターフロントのレストラン&カフェ街で遭遇した。
チャルコ・デ・サンヒネス、サンヒネスの水際とでも訳せばいいのだろうか。純白の建物と青色の窓枠を持つ店が並ぶウォーターフロントの光景はなかなか美しかった。
ウォーターフロントの一角で、日本式に言えば低学年小学生か幼稚園児くらいの子供たちに、相棒がカタコトのスペイン語で話しかけた。「三人して、日本の子供たちのおままごとのような遊びをしていたから、何だろうと思って。。。」と、相棒。
その好奇心むき出しの幼さ?に彼女たちが共感したのか、「おもしろいもの、見せてあげる!」と始めたのが、海際の魚たちへのパンくずの餌やり。体長30センチは確実にありそうな、名前の判らぬ魚が100匹以上も、あっという間に集まってきた。
この浅い水際に、こんなにも魚が棲んでいるのかと驚くほどの魚群が群れ集まり、その魚を追ってか? はたまた同じパンくずの餌を求めてか、カモメたちまで何羽も集まってきた。
帰路は駆け足、全員乗船時間終了およそ10分前にやっと船に戻るという慌ただしさになったものの。。。
まずは愉快な街巡りではあった。
以下、いや↑ 以上、の写真も含めて、その思い出の「覚え書」である。


























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